洗礼と伝道について(2005)
Die Taufe und die Mission(2005)


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 簡単な「伝道途上国の教会の洗礼」の説明(長い方の文章の補足説明)

 キリスト教人口:1%(100万人)

 「何にも属していない」と答える人が50%いるのに、各宗教団体の発表する信者の数の総計は人口にほぼ同じ、つまり「全くなし」か「複数掛け持ち」が多い。その中で掛け持ちなく一神教を信じている(日本ではキリスト教以外の一神教はほとんどない)のはキリスト教の1%だけ。文化的にキリスト教が浸透しているのは結婚式とクリスマス。90%のカップルがキリスト教式の挙式を希望する。

 一番大きいプロテスタントの教会である日本基督教団の特長

 小さい教会
 礼拝出席40人に対して教会員60名。個人的にはこの比率には満足していない。礼拝出席が教会員を超えるべきではないか。なぜなら求道者がいるのだから。実際、新しい横浜の礼拝堂では教会員の礼拝出席と求道者の出席がほとんど同じである。ただしこれは希少な例。小さい教会が小さいままに留まっている理由の一つは、伝道がなんであるかについての混乱があるから。このことはあとから述べる、日本の教会が神学的に自立していないことから起こる現象である。

 異教に囲まれた教会
 家族で教会員という例が少ない。従って葬儀の時に家族の宗教にあわせて仏教でされる例がある。遺言の書き方を指導しているほか、生前にはこまめに訪問して、家族との関係をあらかじめ牧師が作っておく必要がある。すべての教会員の信仰の状態を責任を持って把握するために、通常は教会員100人程度が限界。私の場合は200人いて、老人のところをすべて訪問するのに時間がかかった。教会が牧師の資質に依存するため、牧師は簡単に転任出来ない。

 伝道途上国にある教会
 幼児洗礼の執行数は少ない。また以前バルトの影響が強く、幼児洗礼を否定する動きがあった。ただし、私の父はバルト主義者であるが幼児洗礼を私に執行した。その理由は、「バルトがもしキリスト教が少数派である国で教義学を書いたら、幼児洗礼は否定しないだろう」という解釈。
 伝道途上国の教会形成とヨーロッパの教会形成は必然的に異なる。この場合どちらが優れていると言うことはいえないはず。この点を顧慮して、伝道途上国の神学を意識しているのが私たちの教会立神学校である。この点は海外で全く知られていない。英語での紹介が最近出た。私自身は伝道の神学の二世代目になる。

 合同教会
 これをunierteとドイツ語で言うか、vereinigteと言うかは意見が分かれる。私自身は、unierteと呼ぶ方がふさわしいと考えている。はっきりしているのは、特定の神学者や宗教改革者の名前を使うことが出来ないということである。特定の立場に立たないため、すべての神学者や宗教改革者は無名になる。この原則は合同教会においては教会政治や説教に至るまで適用される。自分が所属する旧教派の例を挙げただけで会議がストップすることさえある。私の場合はシュライアーマッハーの名前を挙げたことは全くなく、カルヴァンもわずか。私はルター派ではないのでルターは好んで使う傾向がある。

 告白教会
 合同教会の名において起草した告白はきわめて簡素で、唯一の信仰告白としては世界で最も簡素である。その意図は、私たちの教会がまだこれから伝統を作っていくという志を意味する。この点で信条を固定する信条教会とは異なる。

 これらの特徴は古代教会と似ている。つまり、4世紀の頭までキリスト教はローマで人口比1%であった。だから私たちはヨーロッパから神学を学ぶと共に古代教会史から学ぶところが多い。

 洗礼の特長(ここからは私的な文章)
 成人洗礼が多いため、洗礼を受ける前と受けた後の違いを意識する。洗礼は人間を変える。このことを古代教会は悪魔払いによって表現していた。(テキスト参照)
 同時に、その変わっていく様によって教会そのものが変わる。ドラスティックに変わった例としてテキストの中で1例挙げたのは、葬儀の時に説教を聞いて信仰を持ち洗礼を受けるという例が非常に多いこと。キリスト教の死生観と日本の死生観に大きな違いがあり、キリスト教葬儀の魅力と説教をまとめて本にして出版する仕事を日本ではしていた。
 従って、洗礼が人間を変えるというばかりでなく、洗礼が教会を変えるということもいえる。信条教会が洗礼を執行し、執行された洗礼によって教会は告白教会になる。
 教会は洗礼によって成り立つという状況を具体的に表すのは伝道である。洗礼が教会と受洗志願者の両方を変えていくように、伝道も伝道する側(教会)と伝道される側(求道者)の両方を変えていく。相互方向的である。
 残念ながら日本の例ではないが、現地語で伝道するか母国語で伝道するかという議論との関連で。ある島に宣教師が一人で送られた。島の人は皆親切で、彼が現地語を覚えるのを手伝ってくれさえした。気がついたのは、その言葉に「希望」という言葉がないということだった。このことばなしに福音を伝えることは出来ない。彼は伝道することが出来ないまま数ヶ月経った。ある時絶望にくれて海を眺めていたときに、代替表現を考えついた。ein Silverstreifen am Horizont zu sehenこの言葉によって彼は伝道を始めることが出来た。ただしこの話の結論(成功・不成功)は知らない。しかし私にとって重要なのは、彼が希望という言葉を語るたびに彼自身希望に満たされたと容易に想像出来ることである。
 今日伝道はもはや一方方向のものではあり得ない。武器と共に伝道する時代ではない。しかし同時にcorpus christianumももはや存在しない。キリスト教の自己アイデンティティーを明確に支えるものを風土に見出すことは出来なくなった。伝道(と洗礼)だけがキリスト者をキリスト者たらしめるものとなった。個人的にいえば、求道者の指導をする際、最もどん欲にキリスト教を吸収しようとする魂に触れ、この人にどうやって福音を語ることが出来るだろうかと考えることは楽しい。
 教会は教会であるために洗礼を執行する。日本の教会は少数派なので、教会が教会であるためには伝道をする。それは教会自身が伝道の中で変わりつつ伝統を形成していくことに他ならない。それは教会が洗礼によって変わることを受け入れることと同じである。
 従って私がヨーロッパの教会に問いたいのは、1年に100件の洗礼が執行されるとして、その洗礼は本当に教会を変えているかどうか、もし変えていないとしたら本当にそれは洗礼なのだろうか、という問い。さらにいえば、時々伝道を否定する神学者がいるらしいが、その人は伝道の意味を本当に理解した上で否定しているのだろうか、という問い。

 伝道国、たとえば日本の牧師は二つの課題を引き受けている。キリスト教の日本化と日本のキリスト教化である。「変化」という言葉は従来「聖徒の交わり」と関連して考えられてきたが、今回の発表を通じて私が発見したのはこれが同時に「罪の赦し」と結びついているということである。説教と聖餐を通じて罪の赦しが宣言され、その究極の形が洗礼である。伝道とは罪の赦しの告知であり洗礼はその結果である。





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