「神を見るもの」についての人間学的考察
――トマスの至福者の神直観を巡って――



 本稿は、99年2月18日15時45分に教務課に提出された「組織神学学部演習」卒論である。聖書の引用は特に断りなく「新共同訳」(日本聖書協会)を用いている。それ以外の引用(参考文献)については末尾にある。




 序(問題の所在)
 「神を見る」とは何か(神論について)
 至福者とは何か(成義論について)
  habitusの問題(習慣論について)
 今後の展望――結語に変えて――



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 序(問題の所在)

 私たちは今、イエスが語ったあの小高い山の上に上ろうとしている。そして弟子たちに語った説教を聞くのである。

   心の貧しい人々は、幸いである、…悲しむ人々は、幸いである、…柔和な人
   々は、幸いである、…義に飢え渇く人々は、幸いである、…憐れみ深い人々
   は、幸いである、…心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見
   る。」

 神を見ることは、「幸い」の中で語られている。これがトマスやアウグスティヌスによれば、主の祈りの「我らを試みに会わせず悪より救い出したまえ」と関係あるという。[*1]祝福された者は二つ心なく神の方を見ることができるからである。ローマ教会は、このような至福が地上でも得られるという希望を持ち、また実際に得られた人を聖人として列挙してきた。
 しかし、「神を見たものはただ一人もいない」のである。――旧約以来、「神を見た者は死ぬ」と言われてきた。私たちは「神を見る」ことにもっと慎重であってもいいのではないか。それでもあえて13世紀の神学者トマス・アクィナス(1225-1274)は『神学大全』(以下『大全』)において神を見る[*2]ことについて語っている。大まかに言ってこれはトマスにとって「至福」である。
 神についての言及は、しかしトマスにおいてはもう一つの方法でなされる。それは、「神の存在証明」である。それでは、「神の存在証明」と呼ばれるものと、この「至福」とは結びつくのであろうか。結びつくとすればどのようにして結びつくのであろうか。逆に結びつかないというのであれば、両者の関係はいかなるものであるのか。
 そこで、本論では、トマスの神論を『大全』第一部の中から読みとり、神の存在証明における人間の知性の役割についてみたあと(第一章 神論について)、至福についての『大全』第二・一部における言及から至福と徳との関係(第二章 成義論について)を、さらに、徳がどのように生まれるのかについての言及(第三章 習慣論について)を見ることにしたい。



 第一章 「神を見る」とは何か――神論について

 神論についての叙述は、『大全』第一部にある。ここを順番に見ていくことによって、トマスの神論を議論したい。

 まずトマスは、問二において「神について、神は存在するか」ということを問題にする。トマスは一つの問いの中に通常4つ程度の項を含め、それぞれ関連する質問をすることで「問い」の意味そのものを立体的に取り扱うようにしている。「神ありということは自明であるか」というのは、この場合、そのうち第一項である。

   「神がある」という命題は、それ自体としては自明である。なぜならこの命題
   の述語は主語と同じものだからである。(中略)しかし我々は神の「何である
   か」を知らないから、この命題はわれわれにとっては自明でなく論証を必要と
   する。(第一項主文)

トマスによれば、「神」という命題にはそれ自身で「存在」という性質が含まれている(問三第四項)。しかしそのことを本性的には知り得ない人間にとって、「神が存在する」ことは自明ではないというのである。
 次の第二項「神ありということは論証されうるか」においてその「論証」の性質が問題になる。ここでいう「論証」というのは、理性[*3]の働きである。アプリオリな神の概念から出発する議論を避けるトマスにとって、「原因による論証」ではなく、「事実による論証」こそが神存在の証明において有効である。ここでいう「事実」とは

   ある結果がその原因よりもわれわれにとってより明らかな場合には、われわれ
   は結果を通して原因の認識へと進む(第三項主文)

たぐいのものであり、当然限界として

   いかなる結果を持ってしても、その原因が存在することは、明瞭にわれわれに
   論証されうるのである。そこでこのような仕方で「神在り」も、神の結果から
   論証することができる。もっとも結果をもってしては、神をその本質において
   完全に認識することは不可能であるが。(同上第三異論解答)

ということになる。
 逆に言えば、「原因」[*4](これに到達するには知恵sapientiaに相当するものが必要であり、それは不可能である)からの推論は不可能である、ということである。
 それ故、第五項「神は存在するか」で行われる神存在の証明においても、それは神の本質を証明・論証することはできず、ただ、神の存在を証明することだけできる。
 これがトマスの有名な「5つの道」による神存在の証明である。ここではその内容は重要ではないので、方法の名前だけ挙げれば以下の通り。「動因」「作出因」「存在の必然的な本質」「より多く・より少なくの規範となるもの」「目的論的論証」。
 いずれの証明方法にも見出せる共通の特徴は、トマスが「われわれはこれを神という」という一文でこれらの証明を締めくくっていることである。たとえば、

   それゆえ是非とも何らかの第一作出因が在るとしなければならない。これをす
   べての人は神と名づける。(第三項主文、第二の道)

など。このたぐいの証明方法が、厳密な意味で神存在の証明であるかどうかについては、詳細な検討を要する。なぜなら、「神が第一動因である」ということはいえても、「第一動因は神である」とは必ずしも言えないように思えるからである。[*5]
 トマスはこの後に神の単純性・完全性・善性・無限性・偏在性・普遍性・永遠性・一性を論証しているが、それは「神を見る」ということとの関係がどうあるのか。トマスの証明の端々をかいま見ながら、考えていきたい。

 問三「神の単純性について」第一項「神は物体であるか」=>神は物体ではない。
 第二項「神には形相と質料との複合があるか」=>複合ではない。神はその本質において形相である。質料は個体化のためにのみ存在し、神は質料によらずとも個である。
 第三項「神にはその本質ないし本性と同じものであるか」=>同じである。質料と形相との複合であればそうはならない。そのようなものはその本質ないし本性が個体と相違するからである。

 トマスが神について言及するときの特徴がここには現れている。トマスはそれを問二の序文でこう記している。

   第二に(神は)どのようにあるか、というよりはむしろどのようにないかとい
   うことが考察されなければならない。(問二序文)

このような仕方を「否定の道」と呼ぶことが出来る。「否定の道」は、それだけで神の性質を言い表したことにはならない。しかし、トマスは神について言い表すときに、同時に「卓越性の道via eminentiae」も使う。いや、二つの「道」を使っているというよりは、一つの「道」の二つの側面が現れていると言った方がよい。
 『大全』においてトマスは「神は完全である」「神は善である」「神は無限である」「神は普遍である」「神は永遠である」といったことを、次々と論証する。人間の思惟に可能なのは最初は「神は〜ではない」ということのみであったが、ここにいたって「神は〜である」ということも論証可能であるということになる。
 否定の道の歴史的系譜については、西方キリスト教の神学の伝統としてはエリウゲナが最初と考えられる。否定の道がスコラ神学の枠内で語られるとき、どのようなものになるのかを示す、エリウゲナ『自然について』の教師と弟子との対話に耳を傾けてみたい。

   教師:君には肯定と否定という二つのものが相互に対立するものであるという
   ことがわからないのかね。
   弟子:そのことならよく知っています。これらのもの以上に反対のものはあり
   得ないと思います。
   教師:それではもっと細心の注意を払いたまえ。君が完全な思索により洞察に
   至るならば、互いに反対であると思われるこれら二つのものは、神の本性に適
   用される場合には決して相互に対立せず、あらゆる点で完全に相互に調和して
   いるのを君は十分明瞭に見るだろう。そのことがもっとよくわかるように少し
   例を示そう。たとえば、カタファティケーは「神の本性は真理である」とい
   う。アポファティケーは「神の本性は真理ではない」と反駁する。ここには一
   種の矛盾があるように見えるが、しかしもっと注意深く見るならば、何の衝突
   も見出されない。というのも、「神の本性は真理である」と言うのは、神の実
   体が本来の意味で真理であるということを肯定しているのではなく、そのよう
   な名前で被造物から創造者に対して比喩で呼ばれることができるということを
   肯定しているのであるから。実際それは、本来の意味での表現の衣をすべて剥
   いで取り去った神の存在にそのような呼び名の衣を着せるのだ。一方、「神の
   本性は真理ではない」と言うことは、当然のことだが、神の本性が把握できず
   言い表し難いことを正しく明晰に認識した上で、それが存在することを否定す
   るのではなく、本来の意味でそれは真理と呼ばれず、真理でないということな
   のである。
   (中略)
   教師:ここで、このわずかな例から結論を出そう。「神の本性は存在である」
   は肯定。「神の本性は存在ではない」は否定。「神の本性は超存在である」は
   肯定であって同時に否定。これは表面上は否定を欠いているが、意味上は否定
   の力を有している。
   (第一巻第14章)

 エリウゲナにおいて、否定の道と肯定の道は、平行線ではない。「神は超越である」という交叉点を持つのである。同様に、トマスにおいて、否定の道が肯定の道と対立するというのではなく、「完全の道」によって両者は止揚されると言ってよい。

 トマスの神論は、まず最初にこのように神を対象として論じたあと、神の認識の仕方について論じる。それが問12「神はいかなる仕方で我々[*6]によって知られるか」である。
 注目すべきことは、ここで「神を知る」ということは、第一項において「神を見る」と言い換えられていることである。

 第一項「ある被造知性は神を本質によって見ることができるか」、その答え、できる

神を「知る」ということは、トマスにとって、(長血を煩う女がそうであったように)「さわる」ということでも、(東方教会がそうであるように)「なる」ということでもなく、「見る」ということによって表現されるのである。しかしそれは被造知性との何らかの意味での類似性を介して見られるものではなく(第二項)、また肉眼その他の自然本性的に具有している能力によって見ることもできない(第三項、第四項)。しかし、「被造知性は神の本質を見るために何らかの光を必要とするか」と第五項で論じるときに、トマスは「必要である」という。その内容は本文を見ると、

   しかるに被造知性の自然本性的能力は、すでに示されたように、それだけでは
   神の本質を見るために十分でないから、神の恩恵によって知性に、認識の力が
   増し加えられなければならない。そしてこの知性能力の増加を我々は、知性の
   証明と呼ぶのである。それはちょうど、可知的なるもの自体が「光」とか「
   光明」とか呼ばれるのと同様である(主文)

   被造の光が神の本質を見るために必要とされるのは、この光によって神の本質
   を可知的たらしめるためではない。神の本質はそれ自体としてすでに可知的な
   のである。そうではなくて、能力が態勢を得るper habitumことにより、いっそ
   う強力に働きうるものとなり、そういう仕方で知性が認識するだけの力あるも
   のとなるためである(第一異論解答)

それは山田晶氏の解説によれば「恩恵」一般でも「神の光」でもなく、被造物に限定的に与えられる「光」lumenの謂であり、それは一部の人にのみ結果として与えられることになる。

 第六項「神の本質を見る者達のうちのある者は、他の者よりも完全に見るか」、その答え、ある。

これはhabitumという言葉が「習慣」を意味することからもわかるように、恩寵を内在化させた者(至福者)に許される事柄である。そして、恩寵を内在化させるとはいったいどういうことかが、次の「至福論」とその次の「習慣論」によって明らかになる。
[*7]



 第二章 至福者とは何か――主に成義論について

 本論は、「人間学」と銘打ってはいるものの、もっぱら人間学だけを主題として扱うのではなく、『大全』第一部「神について」にもかなりの紙幅を使った。それは、トマスが神について扱うときに必ず「人間とは何か」について考えざるを得ないことに着目したからである。
 しかし、トマスの場合、神についての考察は、必ずや人間についての考察に結びつく。それ故に第二部は「人間」について取り扱うことがふさわしい。トマスは第二部を第二・一部と第二・二部に分けている。前半を倫理についての一般的な考えのためにあて、後半をその個別の倫理についてあてている。この膨大な人間論をトマスは第一問題「人間の究極目的について」で始める。さらにこの問題を8つの項目に分けて論じている。
 そしてこの問題を見ると、「人間に共通の究極的目的が存在するか」について考察していると同時に、それは「なぜ被造物一般ではないのか」、大げさに言えばそれは結局なぜこの『大全』(全三部)の第二部は「被造物」についての考察ではなくて「人間」についての考察でなければならないか、ということがわかってくる。
 トマスは、「人間に共通の究極目的」の存在について、以下のように述べている。

   それはちょうど、誰の口にもうまいものは快適であるが、しかしある人達に
   とっては酒のうまさが、ある人達にとっては蜜のうまさが、等々いろいろなも
   ののうまさが最高度に快適であるのに似ている。それでいてしかし、最上の味
   覚を有する人が最高に喜ぶようなそうしたうまいものこそが端的な意味で何よ
   りも快適なものたるのでなくてはならない。それと同じように、立派な情操
   affectusを有する人が究極目的として欲するごときそうした善こそが、何にも
   まして完璧な善たるのでなくてはならない。(第七項主文)

 ちなみに、これらが人間に共通であるところの理由としては、

   人間などの理性的被造物は神を認識し愛することによって究極目的に到達する
   のであるが、それ以外の被造物にはこうしたことは適合しないのである。(第
   八項主文)

とある。言い換えれば、神を認識し愛することによって究極目的に達することが、理性的被造物[*8]に特有のことであり、しかもそれが「幸福」であるというのがトマスの主張である。

   幸福とは、究極目的への到達ということをいうものにほかならないのだからで
   ある。(第八項主文)

 そして、この幸福とは何か、というのが第三問題「人間の幸福の所在について」である。[*9]
 1.幸福とは被造的な何ものかであるか
 2.それが被造の何ものかである場合、それは働きであるか
 3.働きといってもそれは感覚的部分の働きなのか、それとももっぱら知性的部分の働きなのであるか
 4.知性的部分の働きであるとすれば、それは知性の働きであるか、それとも意志の働きであるか
 5.知性の働きであるとすれば、それは観照的知性の働きであるか、それとも実践的知性の働きであるか
 6.それが観照的知性の働きであるとすれば、その場合、幸福というものは、観照的諸学の行うごとき観照の働きに存するのであるか
 7.それともそれは、諸々の分離実体、つまり天使たち、を観るというそうした観照に存するのであるか
 8.ないしはそれは、ただ「そこでは神がその本質のままに観られるごときそうした神の観照」ということにおいてのみ存するのであるか
 となっている。問いが煩雑である上に、次の問いを見ればだいたい答えがわかってしまうところもかなりあるので、実際、第四項までは改めて繙かなくてもよいであろう。ここでは第五項だけを取り上げてみたい。

   まず第一には、もし人間の幸福というものが働きであるとするならば、それは
   人間の最も優れた働きたるのでなくてはならぬ。しかるに人間の最も優れた働
   きとは、最も優れた対象についての最も優れた能力の働きに他ならない。しか
   るに、最も優れた能力は知性であるし、また最も優れた対象は神的な善であ
   るが、このものはしかし実践的知性の対象ではなく観照的知性の対象なので
   ある。(第五項主文)

 明らかにトマスにおいては、実践的知性よりも観照的知性の方に人間の持つ能力として重きを置き、重要視している。それは意志の働きではなく知性の働きを重んじていることと同様である。それは、意志よりも知性が、実践的知性よりも観照的知性の方が神の本質を観るためには必要だからである。

   究極の完全なる幸福というものは、神の本質を観るvisio divinae essentiae
   ことにしか存しえない。(第八項主文)

 そして第五問題「幸福への到達について」第五項「人間は自らの自然本性的なるものでもって幸福を得ることができるか」(その答え、できない)を経て、第七項「人間が神から幸福を受けるためには若干のよき所業が必要であるか」へと話題の中心は移行する。

   いま、幸福はあらゆる被造的本性を越えるもの故、いかなる純粋な被造物とい
   えども、よってもってそれに向かうごとき働きの運動なしに、幸福に到達する
   ということは決してふさわしい仕方ではないのである。(中略)人間の場合
   は、功業meritasと呼ばれる働きの数々の運動によってそれに到達するに至る。
   (第七項主文)
[*10]

 ここまで、私たちは人間が神を見るということを「至福」と呼んできたが、トマスは、その根拠として「神そのものに至福がある」ことを述べている箇所があるので、そこを見てみたい。第一部問26が考察主題である。
 1.至福ということは神に適合するか
 2.何に関して神は至福であると言われるか。知性の働きに関してであるか
 3.神は本質的にいかなる至福者の至福でもあるか
 4.すべての至福は神の至福のうちに包含されるか

   そもそも「至福」という名の下に理解されるのは、「知性的本性の有する完全
   なる善」にほかならない。(第一項主文)

 そして、それが最も優れた仕方で適合するのは神である、というのである。
 この際、異論への解答も見ておかなければならない。

   さらに、至福者ないし幸福は、哲学者の『倫理学』第一巻によれば、「徳の
   報い」である。しかるに神には、功績ということが適合しないように、報いと
   いうことも適合しない。故に至福も適合しない(第二異論)(のではないか)

   いわなければならない。「徳の報いである」ということは、誰かが至福を獲得
   する限りにおいて、至福ないし幸福に付帯的に属する事柄である…(同解答)

つまり逆に言えば、神は徳なしに、いわば本質的に至福を得ているが、それ以外の者にあっては「徳の報い」によって至福に至る、ということである。[*11]
 それでは、報われるべき「徳」とはいったい何であろうか。この議論を次の章への続きとしたい。
[*12]



 第三章 habitusの問題――主に習慣論について

 第三章は、「習慣論について」がしめるのにふさわしい。それは、徳論でもなければ、功徳論でもなく、また救済論でも義化論でもない。[*13]第一章「神論について」において、「神の本質を見る」のに対して「被造の光」が必要であることが示された。この「被造の光」は、決してそれがなければ神の本質が見えないという意味で、神の本質を初めて可知的なものたらしめるものではない。それよりはむしろ、「(神を見る)能力が態勢を得るper habitum」ことによって、人は神の本質を見ることができる。この「態勢づけ」とはいったいどのようなものであるのか、ということが第一章で積み残した課題であった。続く第二章では、「至福者について」の考察に紙幅を用いた。ここにおいて、「功績」を得ることが「神を見る」至福に至る筋道であることがわかった。功績を積むことと、徳を身につけることとは関連する。いやむしろ表裏一体とも言える。徳を身につけ、いわば「義化される」(成義justificare)過程こそが功徳を積むことであり、逆に功徳を積むことでまた徳を身につけるのである。これは習慣に他ならない。すなわち、功徳によって習慣を内在化させることがすなわち徳なのである。
 以下、習慣とは何であり、またどのようにして形成され、どのように徳と関係するかについて見ていきたい。主に参照する箇所は『大全』第二・一部問49以降である。以下に問49以降の関連すると思われる問を全部挙げておいた。[*14]

 習慣一般について――その本質に関して
  習慣は質であるか
  習慣は質の特定の種であるか
  習慣は働きへの秩序・関連を含んでいるか
  習慣があることは必要であるか
 習慣の基体について
  身体のうちに何らかの習慣があるか
  霊魂はその本質に即して習慣の基体であるか、それともその能力に即してか
  感覚的部分の諸能力のうちに何らか習慣があり得るか
  知性そのもののうちに何らかの習慣があるか
  意志のうちに何らかの習慣があるか
  天使たちのうちに何らかの習慣があるか
 習慣生成の原因について
  ある習慣は自然本性に由来するものであるか
  ある習慣は諸々の働きによって生ぜしめられるか
  一回の働きによって習慣が生ぜしめられることは可能か
  神によって人間のうちに注入された何らかの習慣があるか
 習慣の増強について
  習慣は増強せしめられるか
  習慣は付加という仕方で増強せしめられるか
  すべての働きが習慣を増強せしめるか
 習慣の消滅及び弱滅について
  習慣は消滅させられうるか
  習慣は弱滅させられうるか
  習慣は単に働きの中止のみによって消滅もしくは弱滅せしめられるか
 習慣の区別について
  一つの能力のうちに多くの習慣が存在しうるか
  諸々の習慣は対象に基づいて区別されるか
  諸々の習慣は善・悪に即して区別されるか
  一つの主観が多くの習慣から成立することがあるか
 徳の本質について
  人間的徳は習慣であるか
  人間的徳は作用的習慣であるか
  人間的徳はよい習慣であるか
  徳は適切なる仕方で定義されるか
 徳の基体について
  徳の基体は霊魂の能力であるか
  一つの徳が数多くの能力のうちにあり得るか
  知性は徳の基体たりうるか
  怒情的及び欲情的能力は徳の基体であるか
  感覚的な認識能力は徳の基体であるか
  意志は徳の基体たりうるか

 まず最初にトマスは「習慣」という言葉の語源論から始める。[*15]

   この「習慣」habitusという名詞は、「持つ」habereから派生したものである。
   ところで「持つ」から「習慣」という名詞は二つの仕方で導出される。その第
   一は、人間、もしくはほかの何らかの事物が何ものかを持つといわれる限りに
   おいてであり、もう一つの仕方は、何らかのものが自分自身、もしくはほかの
   何ものかに対して、何らかの状態にある限りにおいてである。(中略)しか
   し、「持つ」が(もう一つの意味で、つまり)あるものが自分自身もしくはほ
   かのものに対して何らかの状態にあるといわれるところに従って理解される場
   合には、自らをある状態におくこうした仕方というものは何らかの質に基づく
   ものであるから、この場合には習慣は質の一種であることになる。これについ
   てアリストテレスは『形而上学』第五巻において「習慣とは、それによって、
   ある状態dispositumづけられたものがそれ自体においてにせよあるいはほかの
   ものに対してにせよ、よくもしくは悪しく状態づけられるところの、その状態
   をいうものであって、たとえば健康は一種の習慣である」と述べている。そし
   てわれわれがここで語っているのはこの意味での習慣である。従って、習慣は
   質であるといわなくてはならない。(問49第一項主文)

このように、「習慣」をトマスはアリストテレスを援用しながら「状態」と関連づけて論じる。このような習慣は働きactusのための秩序・関連ordoを含んでおり(問49第三項)、これらのものは本来的に身体のうちにも見出されるものであるが(問50第一項)、それはいってみれば「健康や病気」といったものだけであり(同上)、

   もしわれわれが『ペトロ後書』第一章に「われらが神的本性に参与するものと
   ならんがために」と語られているところにしたがって、人間がそれを分有する
   ものとなりうるごとき何らかの高次の本性について語るのであれば、その場合
   には霊魂のうちにその本質に即して何らかの習慣が見出されることを妨げるも
   のは何もない。そうした習慣とは、後に述べるごとく(問110第四項)、す
   なわち恩寵のことである(問50第二項主文)

ともいわれるが、実際に「健康や病気」のたぐいの「状態」(「形相もしくは自然本性への関係における基体の状態・秩序づけたる限りでの習慣」habitu sedundum quod est dispositio subjecti in ordine ad formam vel naturam)と「神的本性に参与する」ための「習慣」との差異についてトマスは詳述していない。また、トマスは知性のうちに存する習慣について指摘し、(問50第四項)、

   認識し考察することは知性に固有なる働きである。それゆえ、それによって考
   察が行われるところの習慣もまた、本来的にいって知性そのもののうちに見出
   される(同上)

ことになる。トマスは知性の下に意志を置くので[*16]、意志のうちにも習慣があるということになる(同第五項)。しかしながら認識と欲求能力(併せて「霊魂の能力」potentia animaeとトマスは呼ぶ)では若干事情をことにするものの、

   認識に関わる習慣のあるものは発端に関して自然本性的である。しかるに、諸
   々の欲求能力においては、人間の霊魂そのものの側からいえば、発端に関して
   自然本性的であるところの習慣は、習慣の本質そのものに関する限り何ら見出
   されないのであって、単に習慣の根源ともいうべきものに関してのみ自然本性
   的なるものが見出される。(問51第一項主文)

この「霊魂の能力」が果たして前述の「形相もしくは自然本性への関係における基体の状態・秩序づけたる限りでの習慣」とはっきり区別できるものなのかどうかについてはトマスは明言しない。トマスはこの両者の間に連続性を認めているのかもしれない。
 しかしトマスは、ほかの点における習慣の区別を試みている。

   二つの理由からしてある習慣が神によって人間のうちに注入される。第一の理
   由は、人間がそれによって人間本性の能力を超えでる目的――それは、前述の
   ように(問5第五項)、人間の究極目的にして完全な至福に他ならない――へ
   と善く秩序づけられるところの、何らかの習慣が存在する、ということであ
   る。(中略)このような習慣は神によって注入されるのでなかったら、決して
   人間のうちに見出されることはできないのであって、このことはすべての恩寵
   的な徳についていることである。もう一つの理由は、第一部(問105第六
   項)でいわれたごとく、(中略)神は時として自らの力vitusを顕示するため
   に、自然的な原因なしに健康を生ぜしめる(問51第四項)

ある種の習慣は「注入的」な習慣habitus infususであり、「獲得的」な習慣habitus acquisitusとは区別されることになる。
 さて、私たちの関心は、このような習慣habitus(そして場合によっては状態dispositum)がどのような形で恩寵の内在化に役立っているかである。そのことについてトマスは「徳」と結びつけて論ずる。

   能動的な自然(本性)的能力の場合に見られるごとく、諸々の能力のうちのあ
   るものはそれ自身に即しておのれの働きへと確定されている。ここからして、
   この種の自然的能力はそれ自身に即してちから(徳)virtutesと呼ばれるので
   ある。(中略)それ故に、諸々の人間的徳は習慣である。(問55第一項主文)

 徳とはそれ故に、神より注入されることも(注入徳といい、より高位)、獲得されることも(獲得徳といい、より低位)あるが、習慣でありまた状態のことであるということになる。これが本章の結論である。
[*17][*18][*19]



 今後の展望――結語に代えて――

 山上の説教を聞きながら、私たちは少し遠回りをしてきたような気もする。
 ここまで調べてきた、恩寵=>義化=>習慣・徳=>至福という道筋は、ローマ教会において「聖人」の通る道筋である。そして、聖人とそうではないキリスト者の違いは、結局のところ「徳」の違いである。「徳」とは、キリストによって示された道をどれだけ忠実に歩んできたかによって、与えられる多寡が異なる、ということになる。
 私たちはそこに異を唱える。「徳」の多寡ではなく、恩寵によって私たちは神を見るのではないのだろうか?今まで見てきたとおり、トマスが恩寵を廃棄するというのは全くの間違いである。しかし「恩寵は自然を廃することなくかえってこれを完成する」"gratia non tollit naturam, sed perficit"(I q.1 art.8 ad.2)という言葉は、恩寵の中に自然があるということを曖昧にし、「自然は恩寵を際だたせることなく却ってこれを曇らせる」ものだと言わざるを得ない。私たちはそのことを「神論について」において確認した。トマスにとって、神の存在証明とは、信仰抜きで成り立つものである。自然神学的だ、という批判も故なしではない。しかしもっと重要なことは、この「神の存在を確証する」作業と「神を見る」こととの間に明確な溝をもうけないことである。そのことによって、徳のない状態においてはただ存在が確認できるのみであったところの神が、徐々に徳を積み重ねることで神が見えるようになるという図式を成立させている。このようなトマスの義化論には何の問題もないのだろうか。
 おそらく私たちの福音主義教会は、この立場とは異なるものと考えられる。果たして徳というものは積み重ねられるのだろうか?しかし、もっと重要なことは、自然と恩寵の間はトマスがいうほど連続的なのだろうか?後者に基づいたトマスに対する福音主義教会の批判を敷衍すると、こうなる。恩寵と自然とは、切断をしてはならないが――この点トマスは正しい――、混合も変化もしてはならないと言えよう。この点において、私たちはカルケドン的でなければならない。正しくは、恩寵から自然へ、という道筋においてだけ存在し、恩寵と自然とは切断してはならないが、区別をしなければならない。
 トマスにおいては「混合」の問題点を見出したのみであったが、私たちは新たな段階へと到達していることになる。しかし、この「カルケドン的神学方法」というのはかなり広いテーマで応用できることなので、さらに一言しておきたい。カルケドン的方法というのは、もちろんカルケドン信条の中の文言「分ぜず、混ぜず、変ぜず」を使って神学思惟上の助けとすることをいうのだが、そもそもカルケドン信条とはキリスト論に関する告白なのであって、それ以外のことに用いることができるのかどうかという問題が残る。厳密に言って、確かにカルケドン信条がなぜ恩寵と自然に関する議論と関係するのかということは言えない。しかし、キリストの神性は恩寵を、人性は自然を指し示し、神性と人性に関する議論は結局恩寵と自然に関しても妥当するのだ、と考えることは全く故なしではない。たとえば宗教改革の評価においても、「ただ恩寵のみによる義認」をいうルターは「恩寵と行為による成義」をいうローマ教会に対して(1)恩寵と行為との区分をはかり(「混ずる」誤りからの解放)、(2)恩寵の元に絶えずとどまり続けることを勧め(「変ずる」誤りからの解放)、(3)その限りにおける恵みへの応答の勧め(「分ずる」誤りからの解放)を行ったと考えることができる。[*20]

 そして、カルケドンへの言及は、もう一つ重要なことを私たちに思い起こさせる。それは、トマスが至福についての議論をしている間、キリストへの言及がなかったということである。[*21]
聖書には

   いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、こ
   の方が神を示されたのである。

と書いてあるというのに!キリストについての言及は、第三部に至るまで出てこない。つまり、神論と人間論について十分に述べ尽くして、初めてキリスト論が出てくるのである。この順序は妥当といえるだろうか。私たちはすでにこのことを、神の存在証明をキリスト論抜きで行っているときにも疑義を提出しておいた。
 もう一言付け加えるならば、「トマスの人間への関心」についてであろう。これはすでに見たように(本論「至福者とは何か」)、徳を積むための人間の知性が、神から与えられた特別の賜物であるということの強調であろう。そのことが『大全』を人間と天使についてもっぱら論ずるものとしてしまい、被造物一般についての議論ができなくなってしまった。と同時に、ここで人間を主題にして何がなされたかといえば、ほかならぬ「人間の救い」についてであり、ここに「救い」についての関心を第一におく西方教会のよい伝統が見出せる。このことは、前段の「後述されるキリスト論」の問題と併せて記しておかねばならない。
 しかし他方、トマスの方法によっては、「神を対象化」する事は避けられていないように思われる。それは「神になる」という東方教会の神学の伝統を回避することの結果でもある。また私たちはそれを回避するために近代自由主義神学者たちが行った「神を心理化」する方法にも難点を感じているのである。解決されるべき困難は依然として多い。

 私たちは山上での説教を聞いている間に、カルケドン公会議、宗教改革、そして現代にまで発展する壮大な一炊の夢を見た。そろそろ山上での説教に戻ろう。

   喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前
   の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

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 参考文献
 『神学大全』(創文社)(私訳を付すことはせず、翻訳に頼ったが、必要に応じて原文を付しておいた。原文はLatin text & English transl.Intro.Notes, Appendices & Glossaries ed.Gilby, T. Megher,P.K.-O'Brien,T.C.-Eyre & McGraw ed.また、中央公論社「世界の名著」(抄訳)がフォローしている部分についてはそちらに拠ることとした)

ジルソン、中世における理性と啓示、行路社、邦訳1981年
稲垣良典、トマス・アクィナス哲学の研究、創文社、1969年
コプルストン、中世哲学史、創文社、1969年
リーゼンフーバー、中世哲学の源流、上智大学中世思想研究所、1995年
リーゼンフーバー編、トマス・アクィナス研究、創文社、1975年
印具徹、中世思想――中世スコラ学を中心として――、日本基督教団出版局、1979年
岩下壮一、中世哲学思想研究、岩波書店、1941
山内清海、聖トマス・アクィナス哲学序論、サンパウロ
E.Gilson,La philosophie au moyen age
渡部菊郎、トマス・アクィナスにおける真理論、1997年、創文社
Etienne Gilson,"The Philosophy of St.Thomas Aquinas",1929(org.1924),Dorset Press,NY
Brian Davies,"The Thought of Thomas Aquinas",1992,OP,NY
R.L.シロニス編、エリウゲナの思想と中世の新プラトン主義、1992年、創文社、特に第11章「中世における理性と信仰」は中世神学の信仰についての好著である。
エリウゲナ、『ペリフュセオン(自然について)』、中世思想原典集成第六巻「カロリング・ルネッサンス」
 
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