見神の至福、脚注

 本稿においては、冗長な部分はあるにせよ、本論の論述は最小限にとどめ、新たな問題提起は脚注に納めてある。しばしば覚え書き的な、そして時として完全に独語的な脚注もあることはご容赦願いたい。
 脱稿してから考えていることの一つをここで挙げてみる。それは、「神の似像」imago deiの問題をカルケドン的テーゼと関連づけて考えるということである。人間は神の似姿、と言うよりはより厳密にはキリストの似姿imago christi(1 cor.15:49,1 joh.3:02)なのではないか。そのことはトマスが「神の似像」を三位一体論で考えていることとの対象をなしている。注12参照。






[*1]
   心の清いものが幸いであるのは悟りによってであるならば、われわれが現世的
   なものを追求して二つ心を持つことのないように祈ろう」『神学大全』第二・
   二部問83「祈りについて」第九項第四異論解答におけるアウグスティヌスの
   引用

[*2]
visio deiともvideo deiとも表記される。この場合言語的には肉眼のニュアンスがやや出てくることになる。しかし『大全』ではそれほど意識的に使い分けられていないように思える。
[*3]
トマスにおいて、知性とは同じものであるが働きにおいて異なる。
[*4]
山田氏は中央公論社「世界の名著」の抄訳の中で、例としてアンセルムスの「それ以上大きなものが考えられ得ないもの」の概念から神存在の証明をするものを挙げている。
[*5]
同時にこの証明は、キリスト論的な要素が全くないため、トマスが実際にそうしたように、全く別の場所で「神に至る道としてのキリスト」について述べなければならなくなる結果を生んでいる。このことの功罪は結論で少し触れる。
[*6]
この場合の「我々」とは、論理的に最高の能力を持った人間のことで、それがどのような人間であるかについては第二・一部以降で論じられる。本論でも後述。
[*7]
トマスの自然と恩寵との関係についての洞察は、この問からも見出すことができる。第十二項において「われわれは神を現世において自然理性によって認識することができるか」及び第十三項「恩恵によって、自然理性によって得られるよりも高度の神の認識が得られるか」は、自然啓示と特殊啓示の両者における神認識についてのトマスの態度が記されている。すでに神を認識することにおいてその自然理性は存在を言うことはできてもその有様を言うことはできないことが問二以下で述べられている。ここで

   われわれの自然本性的認識は、感覚にその端緒をとる(主文)

と言って「事実による論証」をすることこそがこのいわば「自然神学」の主要原理であることが示された。それに対して、

   恩恵による場合、われわれは神について、自然理性に拠るよりも完全なる認識
   を得る。このことは、以下に述べるところから明らかである。われわれが自然
   理性によって得る認識は、二つのものを必要とする。すなわち、感覚から受け
   取られた表象と、自然本性的なる可知的光とである。(第十三項主文)

と言うときの「可知的光」こそがいわばトマスの「啓示神学」の主要原理ということになる。ここには、自然事物の先行及び啓示の自然との非分離がいわれていることになる。
[*8]
ここでは特に人間のことを言っているが、トマスが「理性的被造物」といったときには天使も含まれる。しかしトマスはここでは詳述していない
[*9]
その前の第二問題「人間の幸福の所在について」では8つの項目が論じられ、
 1.幸福は富に存するか
 2.名誉に存するか
 3.名声に、ないしは栄光に存するか
 4.権力に存するか
 5.身体の何らかの善に存するか
 6.悦楽に存するか
 7.魂の何らかの善に存するか
 8.何らか被造物の善に存するか
トマスはこのいずれに対しても否定をすることで、被造物世界の中にこの幸福が存在するわけではないことをいっている。
[*10]
実際のところ、トマスは第二・一部問69「諸々の至福について」問70「聖霊の結実について」および第一部第26問「神の至福について」において「至福」を複数形で登場させている。これはおそらく「山上の説教」に出てくる「至福」を念頭に置いてのことだろう。ただし、ここで見た「神を観る」至福をトマスが最も重要視していることは間違いない。
[*11]
山田晶氏は中央公論社「世界の名著」に収録された抄訳の訳注で、この考え方が「あまりにも主知主義的」といわれる批判に対して、「トマスにおけるいわゆる主知主義が、いわゆる主意主義に対立する意味でのそれではなくて、主意主義的な愛のモメントを自らのうちに含んでいることが知られるのである」といっている。526及び次ページ。
[*12]
 本章では、なぜトマスが「被造物が神に至る道」について論ぜずに、「人間」に着目しているのかという問題意識を持って始まっている。その端的な答えは「至福」について論じうるのはただ人間(ないし天使)のみであるということであった。このことは、いわゆる「神の似像」の問題とも大きく関わっている。ここでは詳述できないが、ポイントだけを第一部問93第六項に焦点を絞って考察してみたい。
 トマスは神の像imago deiと痕跡vestigiumとを区別する。第六項「神の像は人間において、ただ精神の面でのみ存在するのであるか」その答え、然り。

   けだし、像は、上述のように、「すがた」ないしは種的形象における類似性を
   旨とするごとき仕方で表現する。痕跡が表現する仕方は、これに反して、果が
   その因を表現するという仕方にほかならず、ただしここでは、果は因に対す
   る「すがた」ないしは種的形象の類似性にまで到達していないのであって、例
   えば、動物の運動によって残された刻印がその「痕跡」と呼ばれるごときはす
   なわちそれであり、また灰が火の「痕跡」、地表の荒廃が敵軍の「痕跡」と呼
   ばれるがごときもまたこれに類する。(第六項主文)

痕跡はそれ故、創造の痕跡と考えて良い。痕跡と神の像との違いは、その神の像がトマス的に言えば「三一性」trinitasを有するかどうかにかかっている。この議論は第五項「神の象は人間の内に、ペルソナの三なるに関する限りにおいて存在しているのであるか」で述べているが、要するに三種類の側面、第六項第四異論解答の「見る」の例によれば「外部の物体の形象」species、「こうした形象のある似姿の視覚に対する刻印づけによって生ずるところの、見るということそれ自身」、「視覚を、見るという働きにまで動かし、またこれを「見られるもの」の内にひきとめておくところの意志の志向」intentio voluntarisのことである。だから、知性においては「知性の形象」「知性それ自身」「知性を働かせる意志」が整っていれば「神の像」であって痕跡ではないということになる。結局のところこれは知性が正常に機能するということに他ならない。
 この議論への評価である。トマスにおける「神の像」としての三一性は、知性という形で確かに私たちのうちに存在することになる。しかし、この三一性の議論は明らかに様態論の誤りを犯している。
 なお、これとは違う角度からトマスの「神の像」の問題について扱っている文献に『トマス・アクィナスにおける真理論』、渡部菊郎、1997年、創文社15ページ以下がある。
[*13]
また恩寵論でもない。本章の終わりの部分に注として「恩寵論」のトレースを少し示すことにした。
[*14]
このほかに、問114が「功徳について」である。これは内容的には「恩寵論」のカテゴリーに入るものと思われる。
[*15]
トマスはまた「神の名」について第一部問13、特に第八項で論じている。「神」の語源論についての考察は有名なものにエリウゲナ『ペリフュセオン』第一巻第12章がある。
[*16]
トマスは『大全』においてある主題を取り扱うとき、その主題と知性との関係について論じたあと、意志との関係について論ずる順序を必ずとる。たとえば第一部問14「神の知について」と問29「神の意志について」。この問50もしかりである。
[*17]
 また「信仰」と功徳、徳についての言及がトマスで話されている。一言でいえば、トマスにおいて信仰とは徳の中の一つとして考えられているものであり、決して『大全』全体の枠を規定するような位置に「信仰」をおいていないというところに特徴がある。以下、
第二・二部の中から関係のある問答について解説を加えておく。

 問2「信仰の内的行為について」第9項「信じることは功徳あることmeritoriumか」

 功徳の根源とは何か、についての説明は第二部一部114問題にあるが、それは「愛徳」であるという。重要なのは「愛徳」が自由を意志によって遂行するということである。それ故に、必然的なことの上には功徳は存在しない。だからここで「信じる行為それ自体は、神によって恩寵を通じて動かされた意志の命令のままに、神的真理に対して承認を与える知性の行為」であると言及することによって、信仰は功徳あるものとなる。

 問4「信仰の徳それ自体について」第一項「『信仰は希望すべき事柄の保証、見えざる事柄の証拠である」というのは信仰の適切な定義であるか』

 もちろんこの定義はヘブル書11章の定義であるが、これはトマスによれば「信仰とは、知性をして見えざる事柄に承認を与えさせ、かくてそれによってわれわれのうちに永遠の生命が始まるところの精神の習慣である」と言い換えられるという。「証拠」は憶見や推測や疑いから区別されたものとして知性と結びつき、「希望すべき事柄の保証」、すなわち希望される至福beatitudo sperataとなる。
 つまりここでいわれていることは、信仰が精神の習慣となることによって、神を知る知性として至福につながるその最初である、ということである。
 そして、この直後の第二項において「信仰は知性を基体としてそのうちに見出される」こと、さらに第三項において愛徳は信仰の形相である」ことを論証する。

 同第五項「信仰は徳であるか」

 「人間的徳とは、それによって人間的行為が善いものとされるところのものである」。信仰とは善ではなく真を示すものであるが、完全な信仰において意志は「不可謬的に究極目的へと秩序づける」ので、徳と呼べる。ここまで、信仰が徳と呼べる理由について示した。
 これへの簡潔な評価である。トマスにおける信仰論は、神論を大きな前提としている。トマスにおいて信仰の対象である神は確固たるものとして既に存在するという前提があるのである。それは神論で、人間が問題になることなくもっぱら神が主題的に取り扱われる形でなされた。しかし、現代において、つまりデカルト以後の二元論的認識論ではこのことは必ずしも言えない。デカルトにおいては対象の確保よりも先に主体の確保がなされるからである。このことは結語からもあえて外したが、トマス批判の中で意外と重要なことなのではないだろうか。
[*18]
 本論文でもし第四章が書かれるとしたら、それは「恩寵論について」であろう。しかし、一つは時間や紙幅の問題で、他方では内容的な問題で、この章を独立して取り扱うことはしなかった。以下に、恩寵論についてのトマスの見解を記した上で、恩寵論が独立して取り扱われない理由も述べてみたいと思う。
 恩寵論に関する記述は、第二・一部において問106「新法と呼ばれる福音の法――それ自体における考察」に続いて問109以降の問答を見るとわかる。これは、この「新法について」で新法が恩寵であることが示され、

   しかるに、新約の方において最も主要的であり、それのすべての力virtusがそ
   こに存するところのものは、キリストに対する信仰を通じて与えられる聖霊の
   恩寵である。従って、新法は主要的にはキリストを信ずる者どもに与えられる
   聖霊の恩寵そのものipsa gratia Spiritus Sanctiである。(問106第一項
   「新法は成文法であるか」主文)

その新法は「義とするjustificare」ものであることが示されており、

   福音の法には二つの事柄が属する。すなわち、その一つは主要的に属するもの
   であって、内的に与えられた聖霊の恩寵そのものである。そして、このものに
   関する限り、新法は義とする。ad hoc nova lex justificat(問107第二
   項「新法は義とするか」主文)

この特徴は恩寵の特徴に重なるものであり、

   成義は不正義の状態から前述の正義の状態への何らかの変化を含意する。とこ
   ろで、ここで罪人の成義について語られているのはこの意味においてであり…
   (et secundum hoc justificatio importat transmutationem quamdam de
   statu injustitiae ad statum justitiae praedictae. Et hoc modo loquimur
   hic de justificatione impii...)(問113「恩寵の結果について――第一
   に罪人の成義について」第一項「罪人の成義は罪の赦しであるか」)

それゆえ恩寵とは成聖の恩寵gratia gratum faciensとも呼ばれる。このような恩寵は認識においては自然的なことを認識するのには特に必要ないとされるが、

   人はいかなる真なることを認識することのためにも――知性がその働きへと動
   かされるのは神による限りにおいては――神的扶助を必要とする、といわなけ
   ればならない。しかし、あらゆる事柄において真理を認識するために、自然本
   性的証明に付加された新しい証明を必要とするのではなく、自然本性的認識を
   越える何らかの事柄においてのみである(問109「恩寵の必要性について」
   第一項「人は恩寵なしに何らかの真なることを認識しうるか」主文)

行為に関して恩寵抜きで善を意志し行為することはできない(同第二項「人は恩寵なしに善を意志し、なす事が可能か」、その答え、不可能)。このような恩寵は、徳とは区別されたものであるとされる(問110「神の恩寵について――その本質に関して」第三項「恩寵は徳と同じものであるか」、その答え、別のものである)。
 この成聖の恩寵は人間に罪人の成義をもたらすものであるが、問113第七項「罪人の成義は瞬間的になされるか、あるいは継起的か」において成義は瞬間的になされることが示されている。しかしこのことと、恩寵を受容する態勢づけに時間がかかるのとは別のことである。

   しかるに、神は恩寵を受容するのに十分であるようなこうした態勢づけ
   dispositionemを、先に述べたごとく(問112第二項第二異論解答)、時と
   しては瞬時に、時としては徐々に、継起的に造り出し給う。(主文)

 このことから、恩寵は先行して瞬時に働くが、人間がそれを受容する態勢づけ(これは徳によってなされる)とは別のことであることがわかる。ということは、恩寵とはキリストの命じられた働きそのものであり、成義のために決定的に必要であると同時に、徳から切り離されたものであり、徳の在り方をある意味で規定するものの、徳そのものの発生源を規定するものではない。

   それというのも、獲得的徳が理性の自然本性的光と適合する仕方で歩むことが
   できるように人間を完成するごとく、そのように注入徳は恩寵の光に適合する
   仕方で歩むことができるように人間を完成するからである。(問110第三項
   主文)
[*19]
さらに、第二・二部問8「悟りの賜物について」第七項「悟りの賜物は第六の至福、すなわち『心のきよいものは幸いである、かれらは神を見るであろうから』に対応するか」において悟りの賜物は第六の至福に対応すると明言している。しかしこの点に関して叙述するだけの時間と紙幅と体力はもうないので、この事実を指摘するだけにしておく。
[*20]
また、「教会と国家の分離」という現代政治倫理的な問題についても「二王国説ではなく(分ぜず)、かといってキリスト教神政国家でもなく(混ぜず)」といったように考えていけば、かなり具体的な手がかりが得られるであろう。要するに、「カルケドン的手法」とここで呼んでいるものは、キリスト論ばかりでなく宗教改革や現代教会形成にまで応用が利く手法であるように思われる、ということである。
[*21]
注の中で見た「神の似像」の様態論的三一論への言及も結局キリスト論抜きである。



 
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