再洗礼は必要か


では具体的に。各個教会規則準則の中で、別帳会員についてその籍を抹消することが出来るとあります。教団の規則体系で明文化されている条項だけを用いると、「再洗礼」をしないとその人は籍を回復できないことになる、という主張がなされています。これなどは典型的な「制定者の意図に沿っていない解釈」ですね。

この解釈は面白いと思いました。不在会員を経て別帳会員になり、相当の年月が経過して教会との連絡が取れない場合、籍が抹消になる可能性があります。

これは教規にはない規定ですね。

各個教会は具体的に信徒の教会員籍を管理する義務を負っていますので、その義務を解除する規定を各個教会が持ちうることを準則は示唆しています。完全に教会と連絡が取れない場合、逝去の連絡が入らないこともありますので、不自然な別帳会員が存在することがあり得ます。他教派の会員になっている場合、二重会員状態という好ましくない状態を生むことにもなってしまいます。抹消条項を制定者が入れた理由は容易に想像できます。

「再洗礼」を示唆しているのではないか、という言及については。

二つのケースが考えられます。この教会規則準則が常任常議員会で最終的に議決されたのは1972年です。他教派、特にプロテスタント教会で受領された洗礼がローマ・カトリック教会やオーソドックス教会で認められるかということには大きな疑義がありました。さらにはプロテスタント内部でも、他教派で滴礼によって受領された洗礼がバプテスト・ディサイプルス教会で有効かということについては対応が分かれています。そこで受け入れのために新しい方の教会で洗礼(浸礼)が執行されても、彼らの立場からすれば「再洗礼」とはいいません。従って歴史的に「再洗礼派」と呼ばれている宗教改革のグループの呼称については考え直す必要があります。

再洗礼論争といえばもう一つ、アウグスティヌスがドナティウスという人と論争したのが有名ですね。

この場合、かつて洗礼を受けた後教会を離れた人は同一の教会に復帰しようとするわけですから、文字通りの意味で「再洗礼」がテーマになっています。さて質問は、洗礼を受けて現住陪餐会員になってから最短6年で籍が抹消された場合、その復帰の手続きはどうなるのか、ということですが、2.の立場に立つ場合、「創籍」をすれば問題ありません。要するにそれが普通の対応です。戦前に受洗したが教会が解散して薦書を送ってもらえない場合などは洗礼受領の証明(証人、日記など)によってこの手続きが出来ます。ローマ教会からの転入の場合、「洗礼証明書」を発行してもらうことで似たことが出来ます。

逆に言えば、2.の立場に立つ場合、「3.にはそもそも無理があって、転入元の教会が薦書の発行を拒否したら転入は永遠に出来なくなることになる」ということになりますね。

法の表現を完全にする場合、「同一教会における再洗礼はだめだけどそうじゃない場合は創籍もOK」と加えることになります。しかし、教団内の転会はどうなのか、とかいろいろ全部書かないとだめなのです。それは到底無理です。

それでは3.はだめで2.だけが残るということなのでしょうか。

誤解を恐れずいえば、3.にもそれなりの真理契機はありますので、2.と3.で別々の答えが出てくることは許容されねばなりません。このケースでいえば、本当に再洗礼をしてしまうということです。先ほども述べたように、以前プロテスタントで洗礼を受けた人がオーソドックスに加入する場合、かなりの確率で洗礼を受けることを求められます。これは現在でもそうです。その事態を回避する法的システムをもっているのは私の知る限りではドイツだけです。リマ宣言はあくまで運動に過ぎません。従って、広い意味での「再洗礼」は実は決して珍しくない現象です。

それでは半ば確信犯的に3.の立場に立って3年+α前に洗礼を受けたっきり教会に来なくなった人に(同じ)牧師が(同じ教会で)洗礼を授けようとした場合、どうなるのでしょうか。

もしその牧師がどうしても他の人に聞きたくない場合、それでやるしかないでしょう。つまりここで、「教会的情報」の共有はどうしても不可欠なのです。

以前あるところで聞いた話ですが、ある教会では教会墓地に入るためには教会員でなければならないそうです。ある家族が家族ごと転会し、そのため亡くなった人たちを新しい方の教会の墓地に入れたいと考えました。そこで、すでに教会員の薦書を送付した教会に対して、さらに「逝去教会員の薦書も送ってくれ」という要求が来たそうです。

当然こういった事態は教憲・教規では明記されていません。逝去会員の薦書を作成する伝統を作ると、原理的には死者やペットのように当該人(動物)の意志を確認できない場合の洗礼も可能になります。確信犯的に3.の立場に立って逝去会員の薦書を送るかどうかは、正直牧師の誠意の問題とも関連します。3.の立場に立って薦書を送ることで問題が起こるともいいきれませんが、2.の立場に立って受洗証明書ないしそれに類するものを送付するのがよいのではないかと思います。何も対応しないというのでは向こうも困りますし。

その場合、靖国問題でもいわれることですが、一旦祭られた人を墓から外すことが出来るのかというなかなか難しい問題にもなりますね。

確かに2.の立場に立って薦書ではなく受洗証明書を送ることで、一つの神学的立場を取っていることになるではないかといわれれば、それはその通りかも知れません。どちらかの立場(2.ないし3.)に立つことで伝統的な理解を示し、その逆の立場に立つことで新しいものを模索できる可能性はあります。従って、2.と3.にはほどよい緊張があってよいでしょう。2.を知らずに3.で突っ走るというのはお勧めできません。
結論をまとめて言うと、どんな法律であっても「全てのことを記載することは不可能」であり、日本キリスト教団の法の場合、最低限のことだけを記す傾向にあり、それ以上の判断をするために教会には牧師が存在し、また教団には信仰職制委員会が存在します。独善的な解釈に陥らないためにはこういった人たちが相談役としてきちんと機能していることが重要です。


2009/07/15
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