法の読み方についての考察



さてそれでは本題に戻りましょう。教憲・教規をテーマにしたブログが発足しているわけです。

ここから先は、二通りの進め方があります。一つは、ブログにある教憲・教規の理解と運用に関して、明らかな誤解がありますから、それについて逐次的に対応していくという方法です。しかしその場合、ブログにはコメント機能がありますのでブログで反応していけばいいわけです。ここでは場所を変えて(筆者にとってホームグラウンドである)「教憲・教規いろは問答」のページの中でやるわけですので、そこで見いだされた「誤解」をこのページの文脈の中で扱っていくという方法があります。従って必然的に後者を選択することになります。

まずこの方は教憲・教規の「読み方」ということについてずいぶんこだわっているようなので、このページなりの立場をまず。

法の読み方は、大雑把にいえば三通りの主張がなされ、それぞれ相容れる組み合わせと相容れない組み合わせがあります。ここでは「制定者」という言葉をキーワードにしてそれらの主張を見ていきましょう。

1.法の制定者の意図は、制定者に聞いてみないとわからないので、わからないことについては直接聞いてみるのが一番である。
2.法の制定者の意図は、法の中から読みとるべきである。この場合制定者は「死んでいる」扱いを受けるので、法の歴史的背景が尊重される。
3.制定者の意図があったとしても法となっている以上、それとは独立した、いわば「突飛な」解釈であっても、法の中で完結している限り許される。


1.の立場は極論をいえば、法を読まないで制定者に聞いて全部やっちゃうのが最も良い、ということでしょうか。

歴史的にいえばアリストテレスはそういう立場を取っていました。近代においては人治主義からの解放と精神生活の多様さを保証するため、政治は法の下でなされる(法治主義)という風に流れが変わってきました。教憲5条で「教団総会の決議ならびに教憲及び教規の定めるところ」と表現した場合、近代においては後者(教憲・教規及び教規の定めるところ)が優位に立つのです。

今までの法律の制定者全てが生きていることはありませんので、残った者たちが解釈権を持つ(1.は排除)として、2.と3.とは相容れないように見えるのですが。

2.と3.のそれぞれに立った場合に理解に食い違いが起こるというのは、ヨーロッパ大陸型の法理解の場合です。

そういえば高校の時、イギリスには明文化された憲法がなく、マグナ・カルタ以来の法律を全てあわせて「憲法」となるということを聞いたことがあります。現在の裁判員制度導入も一部には将来的なイギリス型への移行を視野に入れているという話も聞きます。教会法・教会秩序においてはどちらのタイプの法が理想的なのでしょうか。

「理想的」というのは難しい質問ですが、全ての常識を法の中に書くことは出来ませんので、どうしても起草時に想定していない事態は発生します。2.と3.の判断がずれる可能性は常にあるということです。


2009/07/14
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