『戒規とは何か』を読んで


最近もいくつかの記事を書きためていると聞きました。

私が以前書いた記事に対して、ちょっとした揶揄というか中傷のようなものがあるミニコミ誌に掲載され、どう対応すべきか迷う中で、少し対応の機会を逸してしまった気もします。

教団の中で違う立場の人に対してどういう態度をとっていいかというのは迷うところもありますね。

今回も実は、そういう課題の一つです。

大きく出ました。日本キリスト教団『福音主義教会連合機関紙』の新しい号(第386号、2009年8月)に載っている記事についてコメントをくださるとのことです。目次を見ましたが、「Q&A日本キリスト教団における「戒規」とは何か(信徒編)」というなんかタイトルだけ見るとまさにこのコーナーをまねしたのかと見まごうような(笑)タイトルですね。

信徒向けの記事でありながら、根本的ともいえる重要な示唆を受けました。さすがは教会法の専門家の思想と思わせるところがあるので、ここで解説を加えてみたいと思います。「教団の」と書いてありながら、各個教会に言及しているところがあります。

今年4月に教会総会において慣例としてなされていた聖餐の執行がなされなかった、ということのようですね。

何があったかはこの記事からだけではわかりませんが、牧師の側からいえば、牧会の大きな行き詰まりがあったことは容易に推測できます。その際に、現象としては、特定の信徒の「問題」が指摘されうるということのようです。しかし、その信徒を「戒規」に付するという手続きはとりませんでした。

役員会の支持を取り付けて聖餐そのものの執行を停止した。

この対応、大きな発想の転換があると思いませんか。

わかりません。

だれかがここで戒規を受けているとしたら、誰でしょう。

あ、そういえば、信徒の戒規の一つに「陪餐停止」があるのに対して、「聖餐執行禁止」は教師(牧師)の戒規ですね。

残念ながら現行の教規では教師の戒規の種類を戒告・停職・免職・除名とのみ列記しています。しかしそれ以外の戒規がなされることがないわけではありません。(例:説教禁止)

「聖餐執行禁止」という形で牧師が戒規を受けるとなると、牧師の牧会能力が問われているということですね。

簡単に信徒が悪い、牧師が悪いという風には本来いえないはずなのです。この場合でも、牧師が役員とともにぎりぎりまで努力した様子が報告されてもいます。しかしその上で、最終的に大きな意味で牧師が責任をとるべきだ、とこの牧師自身が判断した。そういう判断のプロセスが「教団」においても成り立つのではないか、とこの記事は示唆しています。

いろいろ考えさせられます。法律は「善意の第三者」を「利益に無関係な人のこと」と定義します。要するに、「すべての人間は自分の利益を追い求める存在である」と前提しているわけです。しかし教会法では、「教会法はすべての人間が愛の元に信仰的に信頼しあって教会に奉仕すること」を前提としています。いってみれば「人間観のズレ」が両者にあることを感じました。

今回の問答で最初に「教団における交わりの問題」について触れました。未受洗者陪餐の執行に対する戒規が懲罰として理解され、愛のない行為であるという非難がされています。それに対して、戒規執行のロジックが、単に「そう法で決まっているから」というような理解に終始してはいないでしょうか。その原因は、教会法の固有性が理解されていないということです。ようするに、「愛なしには戒規は執行できない」のです。

懲罰である場合、原理的には懲罰を加える側には「痛み」は生じません。法の通りに執行すればいいからです。しかし、戒規の場合には違う、ということですね。

さらにこの「教会法の特別な性格」を裏打ちするものとして、「戒規は戒規の適用を受けたものと神との関係を規定するものではない」と施行規則の冒頭に書かれていることにも言及がありました。

これも前から不思議な項目だと思っていました。戒規はまさに神様(信仰)の問題を扱っていると思うからです。つまり、「教会は戒規を通じて神に代わって罰を下している」というような。

しかしそういう理解はそもそも出来ない、なぜならば「「除名」は教会の指導力の限界を教会が告白すること」(引用)だからです。

これは確かに意外です。さらにこの見地からいろいろな示唆を受けることが出来そうですね。

教会法が愛と信頼を前提として成り立っているということ、戒規を暴力装置として考えることは出来ない、ということ以外にもいろいろ考えられます。結局は、世俗法が考える人間観と教会法のそれの違いですから、非常に大きな、そして重要なテーマです。

教団政治という文脈でいうと、教会なり教団なりが成立している根本的なところに相互信頼があるはずであり、それを回復する作業として教団問題を考えるのか、それとも現にある不信感を増大する方向で教団問題を考えるのかというのは、その人の立ち位置の問題に関わってきますね。そういう観点から教団政治に関わる人の言動を見ていくことも大事だということですね。
2009/08/15
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