教会法、特に戒規を巡って


 以下の問答は、先日行われたクラスの勉強会のやりとりを見て思いついたもので、実際の会話に基づいていますが翻案及び文責は上田にあります。
問い:なぜ教会に戒規があるのですか。
答え:戒規は、教会の第三のしるしともいわれる、訓練を司る規定の一つです。教会が教会であるためにはこの規定が必要であるとも言えます。

問い:しかし、教会は罪の赦しを宣告する権能のみを持っているのであって、これを罰する権能を与えられているのではないのではないでしょうか。
答え:「罰する」という言葉が何を意味するかが問題になりますが、悔い改めをおこなわない信者に対して教会が何らかの見える戒告を執行することは逆に罪の赦しをはっきりさせることでもあると言えます。しかし戒規の執行される第一の対象は聖書が教えない異端の教えを奉じ、また他者にそれを信じることを唆した者であり、ついで第二に聖書や教会が禁じる倫理的不道徳行為を明確におこなった者でしょう。

問い:なぜそれは明確に遂行した者に限定されるのでしょうか。第一にそれは単に戒規の審議形態から来る限界という消極的理由以上のものではなさそうですし、第二に見える部分だけを問題にする形式的な、外面的なもののように思われます。
答え:戒規の執行機関は役員・長老会に限定されるべきであり、その中の構成員の一人ないし一部によったり、あるいはそれ以外の機関(牧師個人も含む)であってはなりません。それは私刑を回避するマタイ18章15節以下の教えにかなったことです。そして役員・長老会は戒規事項に関しての守秘義務を遂行しなければなりません。それでは、審議されえない内心や密室における異端へのあこがれや倫理的不道徳は戒規の対象にならず、公の罪だけがそうなるのでしょうか。それは、内心や密室における罪は、信者自身で悔い改める可能性が残されているからです。しかし公の罪に関しては必ずしもそうではありません。「これを戒規としなければ教会の信仰が曖昧になる恐れがある」(199X年札幌中央教会役員会が戒規を執行したときの議事録より)時に、戒規が執行されることには意味があると思われます。

問い:罪は神様とその信者との関係なのだからそこに教会が介入することがそれでも納得ゆかないのです。それは悪しき教会主義なのではないでしょうか。
答え:宗教改革は教皇に教権を認める悪しき教会主義を批判する精神運動を確かに含んでいます。しかし、この精神運動が同時に教会の枠組みを必要としたことも認識しなければなりません。つまり、教会は形式主義を認めますが、精神運動は内実を求めます。重要なのはこの精神運動を充実させるような教会とはどのようなものか、という課題解決であって、最初から教会と精神運動を相矛盾するものだと考えることは早計です。

問い:倫理的不道徳について、これを戒規とすることの限界も感じます。
答え:アウグスブルク告白教会(ルター派教会)では教会を純粋な教理を保持するために必要だと認識しています。この場合に、倫理は教理からの付随物であるとして、二義的な位置づけしか与えられないでしょう。この場合に倫理的不道徳について戒規を執行することは多少難しいものであると言えるかもしれません。それに対し、イングランド宗教改革運動によって礼拝改革を志した改革派は、礼拝と生活を重んじ、ここからピューリタンも生まれたことは有名です。ここでは信仰と礼拝生活とは切り離すことが出来ないことになります。前者を教理を核とする教会と呼ぶとすれば、後者は礼拝を核とする教会と呼べましょう。しかしどちらも義認と聖化とは区別出来ても切り離し得ないものであり、教理と礼拝との不可分性を認識すれば、結論は同じといえましょう。

問い:現行の日本基督教団教憲・教規の問題に移ります。教職と信徒とは訓練を受ける際にどのように異なり、どのように同じと言えますか。
答え:「訓練」が聖書や教理の教育ということを指すならば、それは同じです。第一に礼拝の説教から御言を聞くという姿勢になんの代わりもありません。次に、「訓練」が戒規を指すならば、それは戒規の執行主体が違うことを明確にしなければなりません。これは教団の職制が「教師と信徒」によって構成される(教憲第9,10条及び教規第123条以下)ということに他なりません。このことは信徒の戒規が役員・長老会において執行されるのに対して、教師の戒規が教区の教師委員会において執行されるというような違いがあります。
2001/02作成
(教規第144,142条及び戒規施行細則)
 
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