自由な私訳(新共同訳を参考にして)
ユダヤ人の過越祭が近づき、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
そして、神殿の外の庭で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
イエスは縄で鞭のようなものを作り、すべての動物を境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書、そして・すなわちイエスの語られた言葉を信じた。
 
 本文批評
 14節βοαs και προβατα και περιστεραsの前にταsを入れる写本がある。3つがひとそろいであることを示すことになる。
 15節φραγελλιονの前にωsを入れて「ある種鞭のようなもの」とする写本が古いものに見られる。
 
 全体的な考察、共観福音書との比較と文脈考察を通じて
 マタイ21:12−13,マルコ11:15−17,ルカ19:45−46にそれぞれ並行記事が存在する。これらと比較して第一印象として異なるのは、ヨハネのそれが分量的に多いということである。
 まず第一にそれは一つのペリコーペの中に「神殿での宮清め」「ユダヤ人たちの反発」「神殿再建の予言」「記者によるモノローグ、復活予言としての解釈」という多くの要素が含まれているからである。
 第二に、共観福音書ではイエスのエルサレム入場のほぼ直後に置かれているのに対して、ヨハネでは公生涯の比較的早い時期に置いている点で特徴を持ち、単に多くの要素を持つばかりではなく内部での有機的なつながりを持たせるために、より多くの言葉を費やさねばならなかったということが考えられる。
 
 これらのことによって、ヨハネ福音書独自のペリコーペが完成している。前後の文脈を確認してみよう。
 前段。カナでの婚礼の記事。イエスの公の場所での始めての活動。その後に、母、兄弟、弟子たちとの滞在。この「滞在」μενωはイエスとの交わりを示すヨハネ福音書における神学的な用語である。エルサレムで行われる祭りの前にイエスがμενωする例がヨハネ福音書で7:9および11:54に見受けられる。
 前者については、イエスの兄弟たちがイエスを信じていないという5節の記述を反映してか単独の行為であり、後者についてはイエスへのユダヤ人の敵意が明らかになったときに弟子たちとの交わりを強める文脈(ただし動詞はいずれも単数)であり、敵意や危機を目前としたときの結束を意味するとすれば、この2章12節の「滞在」もまた同じような意味を持つのかもしれない。
 そうだとすれば、イエスはこの祭りでどういう形で敵意を感じたのだろうか。まず第一にそれは18節に見られるような「しるしの要求」であり、第二に23節以下で展開されるような、人々への不信である。この祭りはそれ故に第一に「ユダヤ人への不信」であり、第二に「一般的な民衆に対する不信」をイエスに与えたことになる。
 これらの不信が福音書の比較的前の方におかれているというのがヨハネの特長である。それ故、R.E.Brownは共観福音書における宮清めの位置づけを正しいと見なす。G.R.Beasley-murray,Haenchenとも同意見だが、ブラウンはこの問題にかなり紙幅を割いて論及している。
・バプテスマのヨハネへの言及がマタイ福音書ではその直後にあるが、こ
 れはバプテスマのヨハネの死後間もないときと考えないと意味がないの
 で共観福音書の方が間違い。そもそも宮清めのような大胆な行為をした
 らすぐに捕まるはずだ
・ヨハネ福音書はエルサレムでの振る舞いを比較的自由な位置で書くこと
 ができる上でこの位置なので意味があるのではないか
・その中間
など、それぞれの立場の学者の考察を紹介した上で、ヨハネにおいてはラザロの復活がイエス逮捕の決め手のモチーフとして受け止められているのではないかということから彼の結論を出しており、参考になった。
 
 対ユダヤ教観。ιουδαιοιについてはあとで考察するとして、共観福音書ではエルサレム入場、ユダヤ人たちの不信仰を嘆く文脈に収斂されるが、むしろヨハネ伝の場合にはキリストの復活の方に強調点があるように思われる。既成宗教としてのユダヤ教批判はその次である。
 
 細かい考察
 全体は「導入」「宮清め」「聖書想起」「ユダヤ人との問答」「記者による解説」と分割することが出来る。
JOH02:13 και εγγυ ην το πασχα των ιουδαιων και ανεβη ει ιεροσολυμα ο ιησου
JOH02:14 και ευρεν εν τω ιερω του πωλουντα βοα και προβατα και περιστερα και του κερματιστα καθημενου
 
 ιουδαιοιのここでの用法は単にキリスト教会が過越祭をこのように守らなくなった時期の編集であるということにすぎない。むしろ18節の用法の方がヨハネ特有である(ブラウン)。
 共観福音書との違いは、「牛や羊」までも彼らが売っていたという点である。境内で売るにしてはあまりにも大きいことから、神殿の退廃ぶりを示すためのヨハネの付け加えの可能性が高い。
 
JOH02:15 και ποιησα φραγελλιον εκ σχοινιων παντα εξεβαλεν εκ του ιερου τα τε προβατα και του βοα και των κολλυβιστων εξεχεεν το κερμα και τα τραπεζα ανεστρεψεν
JOH02:16 και τοι τα περιστερα πωλουσιν ειπεν αρατε ταυτα εντευθεν μη ποιειτε τον οικον του πατρο μου οικον εμποριου
 
 ここでも「牛や羊」の強調がなされている。考えてみると、牛や羊(複数)を境内から追い出すには、かなりの時間がかかるものと思われる。しかも、この前にある「縄で鞭を作り」というのも、やはり時間がかかる行為である。また、鞭を持つものは権威者である。さらに両替人の金をまき散らすというやり方も、共観福音書では例を見ないほど派手に行っている。(両替人がローマ帝国の通貨からドラクマ貨への両替をどの程度のリベートで行っていたか、それを全巡礼者から受け取っていたとしたらどの程度の額になるか、当時の神殿の警備などの資料はHaenchenに詳しい。)
 これらのことから、この二節はイエスが権威者として神殿の中で働いたことを丁寧に印象づけることを念頭に置いて書かれたものと思われる。
 一六節で「鳩を売る者たち」にだけ言葉が向けられていることはなぜであろうか。可能性は二つある。第一は、この言葉は鳩を売る者にだけ向けられているという可能性である。これは一五節における宮清めの対象が羊や牛の商人また両替商人に限定されており、鳩を売る者に対しては単に言葉だけであり、イエスは鳩を愛好していたということをも場合によっては意味する。しかしこれはかなり難しい推定となろう(Haenchenがこの立場に立つ。しかし丁寧な説明はない)。第二は、τοιs ταs περιστεραs πωλουσινが最終以前の段階では存在せず、後で15節との整合性をつけるために便宜的に挿入したという考え方である。あとは15節の「羊や牛」がそれより前に挿入されたと推理すれば、τα τε προβατα και τουs βοαsがτεによって編集者のやや不自然な挿入と考えられていること(Beasley-murray,Haenchen)との整合性がつく。14節βοαs και προβαταとはもちろん切り離して考えてよいであろう。14節にあるのを見て、15節にもあわてて挿入して不整合が生じたので16節の冒頭にも付け加えた、といった様子が想像できる。
 また、ここで「(聖書には)こう書いてある」という共観福音書共通の書き出しでない語りをしていることも特徴的である。前半のαρατε ταυτα εντευθενだけは「鳩を売る者」に向けられ、後半はすべての商売人に対して向けられていると考えることもできるが、自然なのはやはり続けて読む方であろう。とすると、このイエスの言葉の中で、聖書的表現なのは後半だけということになる。このことは、次の17節でγεγραμμενονという表現を使うためにここでは避けたという可能性もある。
 その内容であるが、τον οικον του πατροsという用法について。共観福音書ではοικοs προσευχηs(祈りの家)と記している。しかし、LXXによればイザヤ書56:7にこの表現が見いだされるが、ヨハネはこれを採択していない。この理由としては、二つ考えられる。第一に、ヨハネが「祈り」という言葉を使うことは少ない(数少ない例外が6章の給食のところ)。このため、ここでも避けたという考え方。第二が、「父の家」の方が、旧約聖書の中には頻繁に出てくるからである。旧約では、実際の父親の住んでいる家という用法以外に、「故郷」を表す用法が見いだされる(創世記12:1、31:14など)。結果的にか意図的にか、このことによって神を父と同定する発言となった。
 イエスは犠牲として献げるものが売買されているという事実に怒ったのか、犠牲そのものが不要といったのかは考察してみる必要があろう。ブラウンはヨハネ教会の背景から後者、Beasley-murrayはゼカリヤ書の最後(つまりイエスの行為は終末論的であるということ)から前者の立場に立つ。εμποριουという言葉遣いは共観福音書の並行記事では見あたらないことから、後者の立場に立ちうるかも知れない。あとはレポーターの意識の中では4:22の「救いはユダヤ人から来るからだ」が頭の中に強くあり、それも作用しているのかも知れない。
 
JOH02:17 εμνησθησαν δε οι μαθηται αυτου οτι γεγραμμενον εστιν ο ζηλο του οικου σου κατεφαγεν με
 
 新共同訳では詩編69:10に相当聖句が存在する。ブラウンはその前の節も兄弟との別離をいいヨハネ2:12と関係があるので、引用はされていないがつなげて考えている。いずれにしても「食い尽くす」というのが結果的に「建物としての神殿」と「イエス」を指し、後者は(21,22節を鑑みて)イエスの死(と復活)へと展開する。
 
JOH02:18 απεκριθησαν ουν οι ιουδαιοι και ειπον αυτω τι σημειον δεικνυει ημιν οτι ταυτα ποιει
JOH02:19 απεκριθη ο ιησου και ειπεν αυτοι λυσατε τον ναον τουτον και εν τρισιν ημεραι εγερω αυτον
JOH02:20 ειπον ουν οι ιουδαιοι τεσσαρακοντα και εξ ετεσιν ωκοδομηθη ο ναο ουτο και συ εν τρισιν ημεραι εγερει αυτον
 
 このヨハネ特有の用法であるιουδαιοιはマルコ11:27と対照されるように、祭司長、律法学者、長老などをまとめて呼んでいる。
 σημειονとはやはりヨハネ特有で、「信じるための権威」を意味する。6:30に似た用例がある。マタイ12:38には共観福音書唯一のしるしの請求がある。これらについて彼らの要求するようなやり方でしるしが示されることはなかった。ただし、マルコ2:10で明らかなように、内容的につながりのある例は見つかる。いずれにしても、「しるし」という言葉はイエスにとって慎重に用いる言葉である。周囲の人間はそれほどでもない。(3章のニコデモしかり)
 λυσατεという命令形に用いられた動詞に注目。ここでερημοωないしφθειρωといった語ではなく、「ほどく」「解放する」「(法を)破る」といった意味で用いられることの多いλυωを用いている。ヨハネにおける他の用例としては1:27、5:18、7:23、10:35、11:44、18:39、19:10、19:12。一口で「破壊する」といっても、いろいろなニュアンスがある。ここで、「粉々にする」という意味でも「寂しいものにする」という意味でもなく律法概念に対して適用する言葉を使ったことで、イエスのいう「壊す」の意味が理解できるように思われる。すなわち、神殿とは「父の家」であると同時に「(よい意味の)律法によって立っているような宮」なのである。
 また、このユダヤ人とイエスとの問答はマルコ11:27以降のやりとりに似ている。ここで決して実行し得ないような命令(仮に「反語的命令」と呼ぶ)をすることで難を逃れたという解釈が成り立つ。そうすれば「3日」という数字をどう考えるか。G.R.Beasley-murrayはλυσατεの対象がダブルミーニングであることを述べた上で「建物の神殿」の層ではこの「反語的命令」が適用されることを述べる。この場合創世記22:4,42:17などを挙げるキリストの復活と結びつけないでもこの3日という数字が導出できる道筋を用意している。ブラウンは3日という数字がやはり編集者の考え出した数字ではないということをいう際に、出エジプト19:11,ホセア6:2,ルカ13:32などを挙げ、「そこそこ短いがきっちりとしてはいない日数」であると考える。しかし、イエス自身が3日という数字をいったかどうかは別にしても、λυσατεの対象がまたイエス自身をも指しうるという解釈が成り立つことは指摘しなければならない。20節の挿入は、他ならぬ記者がその解釈に立っていることを示している。このようにしてマルコ伝と同じ立場に立つ。マルコ伝の「人の手によらない」も使徒行伝7:48、第二コリント5:01、ヘブル書9:11などに見られる少し後のボキャブラリーであり、マルコの神学的解釈であろう()。
 46という数字について。われわれは教父がそうしているようにイエスという第二のアダムの「アダム」の文字が46を示しているというような解釈に立つわけにはならない(もちろんこの寓喩的解釈を通じてアウグスティヌスたちが「真の神殿=イエス」という構図に正しくたどり着いたことは認める。しかし、それならなぜそのような重要な言葉が「ユダヤ人」の口から語られたかということについての言及がなければならないであろう)。またイエスの年齢であるという説も斥けなければならない(ルカ3:23。ただしもちろんヨハネ8:57の意味を別に考えなければならない)。数字の正確さについてはブラウンはほぼ実証できるという立場をとっており、神殿建築開始はヘロデ大王18年目の年(紀元前20−19年)であって大筋で正しいと考えられる。だから46という数字には元々神学的意図はないのではないかとブラウンはいっている。
 
JOH02:21 εκεινο δε ελεγεν περι του ναου του σωματο αυτου
JOH02:22 οτε ουν ηγερθη εκ νεκρων εμνησθησαν οι μαθηται αυτου οτι τουτο ελεγεν αυτοι και επιστευσαν τη γραφη και τω λογω ω ειπεν ο ιησου
 
 記者の独話が始まる。ναοsはヨハネにおいては完全に敵対するものではない(参考、MAT12:06言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある)。
 22節は、エピローグ的性格の文章である。一箇所問題になると思われるのがτη γραφη και τω λογωである。多くの翻訳でκαιを「そして」と訳しているが、「すなわち」の意味もある。ヨハネにおいてπληροωする対象はγραφη(聖書)と同時にキリストのλογοsであるので、ここで両者を単に並列するのではなく等値するという意図があるかもしれない(Haenchenがほぼ同意見)。ヨハネ伝の聖書観については5:39が有名であるがこの箇所はこの意見を補強する。
 
参考文献
Nestle-Aland,NT,XXVII
R.E.Brown,AB
G.R.Beasley-murray,WBC
Haenchen,Hermeneia
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