[カルヴァンとルターの聖書解釈――「ことば」への集中]
(教理史特講レポート)
 
問題の所在
 カルヴァンとルターは同じ福音主義教会の陣営に立っていながら、いくつかの点において神学的特徴を異にすると言われる。宗教改革の三大原理を共通にしながら、たとえばキリスト論、たとえば教会論が異なっているというのである。ここで私たちが注目したいのは、特に聖書をどう解釈するか、という意味で聖書論、あるいは厳密には聖書解釈論とでも呼べばよいものである。この項では聖餐論を扱うためにこの聖書解釈論がなぜ必要であるかを述べることにする。
 聖餐の本質は何か。それはキリストの現臨である。そうであるならば、キリストの現臨はいかにして聖餐礼典において現れるか。福音主義教会は、それを物素としてのパンと葡萄酒であるとは言わない。むしろ「ことば」であると言う。「これは私の体である」とキリストが言わなければ、パンは体になるだろうか。ここで宗教改革者がしたように、二つの異なった理解を退けなければならない。まず第一は教皇主義者がそうするように、このことばがパンと葡萄酒の実体を変化させてしまうという理解。第二に熱狂主義者がそうするように、パンと葡萄酒は信仰者の心の中で体と血として受け取られる(かもしれない。結局信仰者のそのときの気分次第)という理解。その二つを退けた上で、via mediaを見いだすのが宗教改革者の神学的作業であった。しかしながら否定辞だけで神学を構成することはできない。いかなる原理を持ってvia mediaを歩くかということが宗教改革者にとっての課題である。ではカルヴァンとルターが異なっているという場合、この、「どの原理」を持つかという点で異なっているのか、それとも何か別の事情(たとえば歴史的な状況など)によるのか、あるいはもっと違うことなのか。この点の解明が本稿の目的である。
 しかし、ではなぜそれが聖書解釈論に集中するか。なぜキリスト論ではないのか。これについては何か原理のようなものがあるわけではないが、各論としての諸神学の特徴は、同じ教理を持つ教会において似通ってくる場合が多い。
 たとえば古代教会においてアレキサンドリア学派とアンティオキア学派を比較してみればわかる。キリストの神性と人性の融合を強調し、勢力論的キリスト論に陥りやすく、キリストと信仰者の神秘的合一に救済を見いだし、聖書の文字と霊との融合から寓喩的解釈を行った前者に対し、後者はキリストの神性と人性の区別を強調し、養子論的キリスト論に陥りやすく、地上のイエスの歴史性に救済を見いだし、寓喩的解釈を退ける*1
 これと同じように、カルヴァンとルターにおいてキリスト論が異なっているのなら聖書解釈論も異なり、その異なり方に応じてまたキリスト論―聖餐論、聖書解釈論―聖餐論も異なることが予想される。
 
予備的考察と方法論
 ここで、東神大の修士論文の中から「後期ルターの聖餐論研究――Real Presenceの問題に関して――」(1997年度提出、井上良作)が見つかって、そこをぱらぱらめくっていたら以下のようなくだりがでてきたことを偶然見つけたことからこの論文の糸口が見つかったことを率直に記さなければならない。実際、研究とはこのように偶然が突破口になることが多い。
 「つまり、ツウィングリは聖書の文字を越えたところに聖書の正しい理解、本当の神の言葉を見ているのである。ここに、聖霊と御言の明確な分離が指摘されなければならない。」(以下、その注)「赤木教授は、ここに改革派が聖餐制定語以外の聖書解釈全般においても聖書から離れて自由に解釈する危険性を指摘しているが、この指摘は斬新かつ妥当性を持ち、傾聴に値するものである。」
 しかし、聖霊と文字との区別を最初に指摘したのは実際には誰なのだろうか。前述のアレキサンドリア学派とアンティオキア学派との比較にもそれは部分的に現れているが、自覚的な方法としては寓喩的解釈全盛だった中世を終え、人文主義と宗教改革の始まる時代まで待たなければならない。しかし、それは必ずしも改革派には限定されないように思われる。たとえば、RGG第三版の"Schriftauslegung"のIV B.Humanismus,Reformation und Neuzeit s.1527ではルターこそが文字と霊とを分けて聖書を解釈することを提案した最初の人物だと述べている。
 ここではまずRGGが示唆するいくつかのルターの註解(聖書解釈論がよく出ているところ)を読みながら、カルヴァンの「綱要」の中の聖書解釈論(に相当するもの)と比較したい。このことによって、私たちはカルヴァンとルターの聖書解釈論の共通性と差異とを認識するであろう。*2
*3*4
 次の課題は、本稿の中心課題である聖書解釈論と、要求されている聖餐論との橋渡しである。私たちは、聖書解釈論―聖餐論の相応関係、すなわち聖書解釈論のずれに応じて、その分だけ聖餐論もずれるのではないかという仮説を提出している。これはなにを意味するか。ここまでの文脈によれば、それは「ことばへの集中」をどこまで、どのように行っているかが違いになるということになる。だから、「橋渡し」の課題は聖書解釈論の解明によって果たされることになるはずである。*5
 
 
ルターの聖書解釈論その1
 Weimarer Ausgabe(=WA)3,11f(American Edition of Luther's Works=LW vol.10 pp.3ff)に"Dictata super Psalterium. GLOSSA: PRAEFATIO."がある。以下のその要約を掲出する。
(要約開始)
 「霊によって歌い理性によっても歌う」というパウロのことば(第一コリント14章)はなにを意味するか。霊的でない状態とは二種類ある。まず第一に心が重くて口だけで賛美をしている場合。第二に喜んではいるがその喜びは肉的なものにとどまっている場合。理性的であるとは霊的理解がなされているということであり、その逆の例としては意味がまったく分かっていない場合と、ユダヤ人のようにキリストから切り離された古代史の状況とだけ関連させる肉的な理解をする場合がある。しかしキリストは霊的理解を可能にする。
 
 エルサレム:寓喩的にはよい民族;比喩的には徳;神秘的には報い
 バビロン: 悪い民族  悪徳  報復
 
「シオンの山」について 殺す文字 生かす霊
歴史的には カナンの地 シオンに住む民
寓喩的には 会堂と長老たち 教会とその民
比喩的には ファリサイ派と律法の義 信仰などの義
神秘的には 死後将来の栄光 天上の永遠の栄光
 
 聖書においては寓喩や比喩や神秘的解釈はほかではっきり言っている真理をのぞいては利用されてはならない(詩篇36編の「神の山々」など)。聖霊(「生かす霊」)に示されて初めて詩篇72編の「海から海まで…(の)支配」は霊的な理解を得る。それゆえ律法の下にいるユダヤ人に向けても(一応は)詩編は解釈されうる。
(要約終わり)
 ここでいわれていることは、聖書の解釈の、必然的ではない、すなわちほかの箇所(これは聖書と信仰告白を指す)から導出されない、寓喩的解釈を排除するということである。
 
カルヴァンの聖書解釈
 カルヴァンの『綱要』の中で、何カ所かで寓喩的解釈を戒める場所がある。
 カルヴァンはいう。「寓意的解釈というものは、聖書の規範の指示する限度を超えて進んではならないものである。それによって何かの教義を基礎づけるに足るとは、もってのほかである」(『綱要』II-5-19)。そういって、ローマ教会とは別の寓意による別の教説まで作ってみせるのである。しかし同時にこうもいう。「私は言うが、聖書が奥義について論じるとき、至る所で用いているこの言い方は『換喩法』なのである。たとえば、『割礼』といわれるのは『契約』のことであり、『小羊』といわれるのは『過越』のことであり、律法にある諸々の『犠牲』は『罪の償い』であり、最後に、荒野において水の湧き出た『岩』(出エジプト17:6)は『キリスト』であったと言われることは、言葉の転義として言われたものと解するほかない」(上掲書IV-17-21)。
 ここには、前述のルターの聖書解釈と似たことがいわれている。つまり、必然的ではない寓喩的解釈を排除するということ。教理が寓喩的解釈によってのみ裏付けられることはあってはならないということ。しかし同時に聖書において換喩法が用いられている可能性を示唆するのである。*6
 
ルターの聖書解釈論2
 実際の講解の例として、WA3,254f(=LW209f)(詩篇45編の講解)を見てみよう(これはRGG3,"Geist und Buchstabe"3.(s.1293f)に指示されているものである)。ここにおいて、ルターは「「ゆり」に合わせて。」(新共同訳)というタイトルを「最後に人は変えられる」と読むという古い解釈の正当性について字義的な検討を行って立証し、そこから義認の教理を導こうとしている。
 ここにおいて特徴的なことが二つある。まず第一に、先に見たように、ルターが最初に字義的解釈に集中しているということ。第二に、そのことから結果として信仰義認を導き出そうとしていること。特に、テキスト上信仰義認を考えるような場所ではないだけに第二の特徴は珍しい。
 この間の事情について、倉松功氏は『ルターとカルヴァンの神学』(赤木先生と共著、現代と教会新書、教団出版部、1964年)においてこう解説している。
 「ルターはその際「人は聖霊を持たなければ、聖書の中の一字も認識しない」といっております。「キリストでないことはどんなものでも道でなく、誤りであり、真理でなく、虚偽であり、生命でなく、死である」というルターのことばが示しているように、聖霊を持つということはキリストを持つことでした。そして「キリストを持っているかどうか」と、キリストに対する関係を明らかにするのが、「律法と福音」であったのです。」*7
 これは、聖書解釈の原理として信仰義認を挙げていることになる。カルヴァンにはこの主張はなかった。「聖書は聖書から」を忠実に守っているのはカルヴァンだということになる。それ故に、ルターとカルヴァンの違いは、宗教改革の原理のことばを用いるなら、「信仰のみ」を第一に掲げるか、「聖書のみ」を第一に掲げるかの違いということになるかもしれない。カルヴァンの主張については上掲書p119で正典論の議論の中でもはっきりする。要するにルターは信仰義認をはっきり打ち出す書簡を中心に「正典内正典」を想定していたのに対して、カルヴァンは「66巻の聖書」を想定した*8
 以上のことから、ルターはもちろん聖書主義者であり不必要な寓喩的解釈をしない点ではっきり宗教改革の担い手であるのだが、信仰義認という「内容」が聖書(という「器」)に入っていることはすでに前提にしていたことになる。*9
 
結語
 ここであげたルターの著作は1513(-1516)年ときわめて早い。この時期からすでに信仰義認の教理を報じていたことにある種の敬意を示しつつも、この首尾一貫性がどこまで保持されているかを私たちは確認しなければならない。具体的には、前期ルターがアルトハウスのいうように(つまりは井上論文がいうように)1524年を境にどう後期ルターに変わっているかという問題である。そのときに「内容」から「器」にルターが視点を変え、聖句の「からだ」定冠詞をつけているかどうかで「器」にこだわる議論をしはじめ(「ルターの聖書釈義」p154ff)、制定語のなかの"est"を文字通り受け取るべきだという議論をするようになった、ということを検証しなければならないのである。しかしそのことについての厳密な検証をする紙幅はもうない。
 もう一つの課題は、カルヴァンとルターの聖書解釈論―聖餐論のぶれは同一か、という問題である。後期ルターは*10確かに制定語の文字通りの受け取りを主張し、文字と霊との一致を「器」すなわち方法論として要請し、その結論として物素とキリストとの(内容的)一致を見いだしている。しかしこれに対する改革派の特徴付けとして井上論文が提示した「聖霊と御言の明確な分離」はすでに前期ルターにおいて見いだされることを示した。だから、文字と霊の一致・分離という観点で聖書解釈論―聖餐論のぶれを測ることは難しいかもしれない。ただし、ルターが首尾一貫して「器」よりも「内容」に注目をしていた、という観点からならまた違う結論が出ることであろう。かようなまでに神学的思索の営みは深く、広い。
(参考文献は本文に掲出されているもののみ)

*1この主題について、同一時期に関川先生に提出した「寓喩的説教か否か」において、ヨハネ6章を巡るクリュソストモスとアウグスティヌスの説教の比較によって、違った角度で論じてみた
*2それ故に、井上論文に刺激はされているがここではツウィングリについては扱わない。
*3聖書解釈論、特にその聖霊と文字との関係というものは、要するに文字をどのようなものと見なすか、という問題である。言い換えればどこまで「ことば」に集中するか、ということである。「ことば」を経由せずに現れ啓示される霊を私たちは聖霊とは呼ばないがそれは聖霊との関係を自己分断する「ことば」への固着を意味しない。
 
*4 この論文ではあまり自覚的にではなく「文字と霊」とかいくつかの二項対立の図式が登場する。ここでそれらを全部掲出しておく。
神性―人性、(聖)霊―文字、キリスト―物素、聖霊―御言、霊―理性、内容―器。
*5なお、制定語の聖書的釈義についての議論は『ルターの聖書釈義』(ペリカン、小林泰雄訳、聖文舎、1970年)の第7章「これはわたしのからだである」を参照。ただし、本論文ではあえて制定語についての聖書釈義の考察には立ち入らず、ほかの箇所を用いることにする。
*61999/05/06(木)の赤木先生聖餐論特講の授業参照。
*7第3章聖書とその解釈」第2項「聖書の自己解釈」、57ページ。この主張が当該箇所にあるということに注目すべきである。
*8さらにローマ教会や聖公会は明らかに福音書を中心に「正典内正典」を想定する立場である
*9これに対してカルヴァンは何というのであろうか。これは結局カルヴァン神学の中心ドグマは何か、という問いであり、赤木先生は「存在しない」という答え方をするかもしれないが、ニーゼルなら「キリスト」というのではないかと思う。しかしこれはいささか自信がないので括弧の中でいうにとどめておく。『カルヴァンの神学』渡辺信夫訳、新教出版、1960年、p33。
*10たとえば"This is my body(1527=WA27)"、"Confession on the Lord's Supper(1528=WA26)"において