[教理史研究演習レポート]
 寓喩的説教か否か――クリュソストモスとアウグスティヌスのヨハネ6章講解の比較――
 
 問題の所在
 金の口を持っているとあだ名されたコンスタンティノポリス主教、ヨハネス・クリュソストモス(347?-407)はアンティオキアに生まれ、早くから修道生活を志した。彼が生地アンティオキア学派の伝統に属するということは、その説教が寓喩を好まず講解に徹するという姿勢からもいわれることである。
 それに対し、アフリカ生まれのアウグスティヌス(354-430)は多くの著作により後の西方教会に大きな影響を残すが、その説教が寓喩的であったことは有名である。
 宗教改革の伝統は寓喩的解釈を禁止するが、そもそも寓喩とは何だろうか。一般的にはガラテヤ書4:24に見られるような解釈は寓喩的で、「著者の意図を越えている」点で退けられるとされる。オリゲネスの影響を受けた中世の説教家がこぞって寓喩的解釈を含む説教をしたことが悪い見本として、宗教改革者の「テキストへsola scriptura」の決断を遂行させたきっかけとなった。しかし、改めて考えればテキストの解釈は正しい適用によって完成するのであり、適用をするということはテキストを越えてなされることを意味する。この場合適用をするのは会衆なのか説教者自身なのかというといもあるが、そしてそのことは現代的には「社会に言及する説教のあり方」という問題と結びつくのであるが、いずれにしても解釈はテキストにはとどまらない。字義的意味だけをいくら敷衍しても聖書解釈は成り立たないのである。また、字義を越えた解釈をすべて会衆に任せきって明け渡す説教も成り立たない。
 したがって寓喩的解釈を戒める宗教改革の聖書解釈原理は限定して考えられねばならないだろう。カルヴァンはこういっている。「寓意的解釈というものは、聖書の規範の指示する限度を超えて進んではならないものである。それによって何かの教義を基礎づけるに足とは、もってのほかである」(『綱要』II-5-19)。しかし同時にこうもいうのである。「私は言うが、聖書が奥義について論じるとき、至る所で用いているこの言い方は『換喩法』なのである。たとえば、『割礼』といわれるのは『契約』のことであり、『小羊』といわれるのは『過越』のことであり、律法にある諸々の『犠牲』は『罪の償い』であり、最後に、荒野において水の湧き出た『岩』(出エジプト17:6)は『キリスト』であったと言われることは、言葉の転義として言われたものと解するほかない」*1。RGG第三版の"Schriftauslegung"のIV B.Humanismus,Reformation und Neuzeit s.1527ではルターこそが文字と霊とを分けて聖書を解釈することを提案した最初の人物だと述べている。その上で、霊的な解釈とは字義的な意味に沿ってなされた神学的・キリスト論的な解釈のことだといっている。
 我々はそれ故、文字を経由しない霊的解釈は存在しないし、霊的解釈に至らない文字解釈というものも認めえない立場にいる。
 
 次の問題点として、聖書解釈と神学との関係の問題である。アンティオキア学派とアレクサンドリア学派において、そのキリスト論の違いが指摘されることがある。『キリスト教大辞典』の簡素な説明をさらにまとめると以下のようになる。
 両者の違いはそれは神性と人性の神秘的合一としてのキリストに重きを置く(アレクサンドリア学派)か、地上での生を営んだイエスの歴史性、人間性に重きを置くか(アンティオキア学派)の違いとなる(このことが行き過ぎたときの極端として勢力論的に誤りを犯すか養子論的に誤りを犯すかの違いともなりうる)。さらにアンティオキア学派はアリストテレス寄りでアレクサンドリア学派はプラトン寄りであるという。
 これらの歴史的形成や意義、影響についてここで論じることはできないが、少なくとも何らかの形でこのことが聖書解釈と関係するであろう。具体的には、アレクサンドリア学派の救済観はキリストと人間との神秘的合一にあるとすれば、霊と文字との神秘的合一が寓喩的解釈を導くことは予想できる。その逆に、神性と人性の厳密な区別を言うアンティオキア学派で霊と文字との区別がなされることは少なくとも図式的には理解できる。以下がその図である。
 
アンティオキア学派 アレクサンドリア学派
イエス(人性) キリスト(神性)
人性と神性の区別 両者は切断不能
テキスト 聖霊
 
しかしこの図は、我々がアポリアとして放棄しなければならない問題ではない。なぜなら、キリスト論の問題はすでに古代教会においてニカイア信条とカルケドン条項によって解決が図られているからである。それによれば、神性と人性とは「分離せず混同せず変化せず」である。そしてカルヴァンはそれを「切り離さず区別するdistinctio sed non separatio」と表現した*2。すなわち、キリストの神性と人性はこの定式において収まりを見せるということである。
 このことは、実際にカルヴァンがなしているように、聖書解釈においても適用される。霊と文字とを区別しながら切り離さないということはなにを意味するのか。このことについてももし結論があるとすれば、神学的になされた解釈のみがこの原則を守っているということになるだろう。
 
 これらのことは聖書解釈が実際に説教において展開されるとき、いかなる意味を持つだろうか。この研究のために、以下のような方法論を用いる。それは、説教の内部にある聖書解釈方法を見つけるのではなく、その解釈方法を成り立たせる説教の外部、いってみれば表現方法に注目するやり方である。それに則って、以下のようなポイントに言及してみたい。まず特に説教者の言葉や会衆の言葉の要素に注目して
・説教におけるすすめの内容
の分析には意味がある。すすめとは適用であり、ある種テキストから越える作業だからである。これと同時に
・両者の恩寵観についての検討
もなされるべきである。これらのことはF.Youngの論文から出てくる要請でもある。さらに
・説教本文の表現への着目
も有効である場合がある。
 
 選択したテキストは、ヨハネ6章の1−40節である。これは入手可能なテキストの内で、テキストのものがアレゴリカルな内容を含む点で興味がある。なお、アウグスティヌスの説教は和文でありクリュソストモスのそれは英文である。翻訳した説教の分析ではあるが、それぞれがオリジナルのものであると想定して分析を行うことにする。*3
 
 いくつかの前置き的な分析
 アウグスティヌスの講解説教にはルーウ゛ァン版以来著者不明の序文が付されており、そこに会衆の大まかな記述がある。この会衆は社会的階層などの多彩さが特徴で、一般に説教を聞いて熱くなるような会衆だったという。このことは、アウグスティヌスの説教の中での、他の聖書の引用のスタイルから伺うことができる。引用の回数は多いがほとんどの箇所で原典をそのまま引用するというのではなく、説教者自身の言葉として用いているのである。これらは一度は理由を付随し、もう一度は理由そのものであって、いずれにしても前後の関係がはっきりした引用である。またいずれの引用も短いことが特徴である。ほとんどのものが(もし引用箇所をとっさに思い出さなかったならば)引用したことを意識させないものである。煩わしい引用がない場合聖書に精通していない会衆も引き込まれやすく、熱狂的な反応を得ることもできる。
 ところがクリュソストモスにおいては引用はいつも長く、これからどの箇所の講解をするのかをはっきりさせている例が多い。この場合、会衆に対し説教の聴聞にある程度の集中を要請し、また会衆が聖書に精通していることさえ予想され得る。
 これらのことは、説教者の会衆への語りかけにも見られる。アウグスティヌスは問いかけを発するとき(「この箇所はなにを言っているのであろうか」)、次のセンテンスで答えを出す(25−8の終わりにだけ例外がある)。またすすめの言葉はきわめて限定的にしか用いられない。すなわち、(神の栄光を)「知解せよ」と「謙虚であれ」と「謙虚によってわたしに従え」「注目せよ」「考察せよ」だけが該当説教本文で見いだされるすすめ(命令形)の言葉である。このうち「謙虚さ」はこの説教全体が課題としており、また「知解せよ」はほかの箇所でもきわめて頻繁に用いられているものであることや具体的な生活のすすめではないことを考えると、生活倫理に関するすすめの言葉はほとんどないことがわかる。
 呼びかけの言葉としてクリュソストモスはしばしば"beloved"を用いる。この言葉はそのHomilyの最後の部分にでてくる。Homily43においては全体の9/13のところで初めて
   Therefore, beloved, since we know this, let us give thanks to God...
といった形ですすめの文章が始まる。同様にHomily44においては全体の8/12のあたりで
   Let us learn, then, beloved, to ask the Father...
となる。それぞれ、該当説教テキストの講解が終わった直後の部分である。
 以上の分析から我々は、両者の会衆像を以下のように位置づけることを暫定的に結論する。
 
・クリュソストモスの会衆は聖書に熟達した会衆で、そうであるが故にかえって聖書の講解を聞きたがる。しかしそのことの適用としての生活倫理のすすめを欲することをやめはしない。
・アウグスティヌスの会衆は(序文がなくとも)聖書に熟達しているとは言えない会衆であり、一方でキリストに対するあこがれを熱狂的に持っている会衆である。
 
(補遺。クリュソストモスの教会が受容していた聖書テキストについて。これは当該説教箇所からは伺えないが、その前の05:04(ベトサダの池の効能の説明)から幾ばくかの手がかりを得られる。これは後代の付加であるが、Raymond Brownはこう言っている。「西方教会では200年のテルトゥリアヌス、ギリシャ教父としては400年のクリュソストモスが最初にこの挿入の存在を示している」(Anchor Bible)。クリュソストモスの教会は何らかの形で西方教会との交流を持っていたのかもしれない。)
 
 恩寵論の比較
 
 これらの分析は、Youngの分析通り一見してクリュソストモスの説教が訓話的であることを示すように思える。それならば、Youngがさらに続けて指摘しているように、実際にはキリストの恩寵を前提にした、その点でペラギウス的ではない説教であるといえるだろうか。
 クリュソストモスの説教で、明確に恩寵の先行を語っているところがある。Homily45(6:28-40)の第19段落(全部で32段落)「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(新共同訳)の講解部分がそれである。興味深いことに、同じ箇所でアウグスティヌスは高ぶりの指摘と謙虚のすすめを行うのである(25−15,16)。そこで、この節ではこの箇所に絞って両者の恩寵論(の奇妙な交代?)を分析してみたい。
 クリュソストモス
 この20行あまりの短い段落の中で、ほかの講解部分とは異なることをいくつか挙げる。まず第一に、Now, what did He wish to show by the words: 'All that the Father gives to me...(中略)?という書き出しがそれである。ほかの講解段落はほとんど必ず聖書箇所の直接の引用で始まるのに、ここでは違う。まずこの段落の10センテンスの構造を開示しよう。
 1.聖書箇所の引用と問いかけ
 2.その答え(彼は不信仰者を責めている)
 3.その補足(責め言葉は直接的なものではない)
 4.その展開(み子とみ父によって不信仰者は責められる)
 5.転換(以下に本文を掲出)
 6.講解箇所の説教者による言い換え(神が指し示した者は何者にもはばかられず私の元にくる)
 7.第6センテンスの続き(誰も父によらずに私の元にくることはできない)
 8.パウロ書簡の引用による言い換えの補強(第一コリント15:24)
 9.言い換えの解説
 10.言い換えの解説
 第5センテンス:If this is His will, and He has come for this reason, namely, that He may save the whole world, those who do not believe are offending against His will.
 この第5センテンスは、4とも6とも論理的なつながりがない。第5センテンスは説教者にとってどのような意図があるのだろうか。「(み子とみ父によって)責められている者は御子の意志に敵対している、それ故に敵対していない者は救済される」といった意味であろうか。もしこの補足が当たっているとしたら、ここでクリュソストモスは一種のレトリックを使っている。このレトリックは、敵対者、不信仰者を描出することで神の味方、すなわち信仰者を会衆に想起させるというやり方である。そこまで第2センテンスで2回、第4センテンスと第5センテンスで一回ずつでてきた敵対者による攻撃を意味する動詞はその後でてこない。また、敵対者への言及はその後なくなる。直接信仰者の動作に言及しないで信仰者に対する恩寵を語るというレトリックは珍しい。なぜなら、クリュソストモスの説教では生活倫理などの身近な倫理ばかりではなく神の愛への想起を促すすすめなどがあり、ここでも「御子の意志に従う者は」といった表現は当然あってもおかしくない。
 このレトリックを使用した意図についてまではここでは言及できないが、相変わらずこの説教でも最後は生活倫理に関するすすめで終わることを付け加えておく。
(補遺。クリュソストモスの説教にでてくる聖書講解のスタイル自身、聖書にこのレトリックが遣われていることを前提に聖書解釈を行っていることを示唆する箇所が数カ所ある。Homily42,19段落目、Homily45,14段落。)
 
 アウグスティヌス
 25-15は聖句の引用から始まる。構成部分は以下の通りである。ただし複数のセンテンスが一つの構成部分に入っていることがある。
 1.聖句引用
 2.説教者自身の言葉での言い換え
 3.「これは偉大な秘跡である」
 4.秘跡の探求への誘い
 5.「私のところに来る者」(がいる)という神秘への注目
 6.彼らを放り出さないのはなぜかといえばそれは御父のみが知っている
 7.私は魂が高ぶって神から離反したのではないかというおそれ
 8.7.の「私たち」への適用
 以下、16節では謙虚さの教師としてのキリストについて述べている。ここでは6.と7.とのあいだにある種の飛躍がある。ここで説教者はキリストの許に行く者(すなわち信者)が放り出されないということはまさに神秘であり、その神秘さに与るものとして第一に説教者自身、また彼を含めた会衆全体は全くふさわしくないのではないか、という畏れの念を前提にしている。アウグスティヌスの神秘主義的恩寵はその枠内で謙虚さのすすめへと転化することを、かなりスムーズに行っているように見受けられる。
 
 結語
 私たちにとって意外なことに、熱狂的な聴衆は恩寵一本の説教を好み、聖書に精通した聴衆が生活倫理に関する教えを好む。そこでは聖書をいかにして適用するか、ということに関するいくつかの問いがある。テキストそのものがアレゴリカルであった当該箇所の場合、かえって両者の差異は目立たなくなる。元々アウグスティヌスが寓喩を使う場合、必ずそれが直接的な救済の言辞と結びつくのであり、アウグスティヌスの寓喩の使用法にも内的な制限はないわけではない。一方でクリュソストモスの説教は逐語講解の形を取っていながらそこからの倫理のすすめへの転換は独特であり、当然聖書からの適用であるから内的な制限はあるとはいえ、必ずしも必然的ではないという点ではアウグスティヌスの寓喩使用と同じである。また、当該箇所の説教において両者ともに、一見して文の欠落と思われるところがあった。これが全体的な特徴かどうかはわからないが、しばしば説教とは最も重要な箇所で論理的ではないことがあり得る。それは説教本来の特色であるのかもしれない。そのことからして両者の説教は私たちに飛躍を要請しているのかもしれない。
(このレポートは7050文字、20x20原稿用紙換算では22枚である)

*1上掲書IV-17-21。このことについて赤木先生は1999/05/06(木)の聖餐論特講の授業の中で「杯を飲む」という表現が換喩であり、誰しもが「杯そのもの」ではなく「杯の中のもの」を飲むと理解できることを述べた。
*2 『カルヴァンの神学』、ニーゼル、渡辺信夫訳、新教、1960、41−42ページほか。
*3 用いたテキストは以下の通りである。
アウグスティヌス24講から26講(新教出版、中沢訳)
クリュソストモスHomily42からHomily45(The Fathers of the Church)
なお、アウグスティヌスのものは教文館からも著作集に収録されて出版されており、クリュソストモスのものとともにNPNFにも収録されている。