99年6月12日奨励


JOH03:22その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
JOH03:23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
JOH03:24ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
JOH03:25ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
JOH03:26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
JOH03:27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
JOH03:28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
JOH03:29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
JOH03:30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」





寮拝奨励のために
 洗礼者と呼ばれたヨハネ。彼は自らのことを「荒れ野で叫ぶ声」と称します。声とは、その声に乗せて福音の言葉が語られる、確かに重要な道具でありますが、しかしそれ自身では何も価値のないものです。福音の言葉を乗せていない声とは、ただの騒がしい雑音です。ヨハネが30節で「あの方は栄え、私は衰えねばならない」と語ったとき、もはや彼は騒がしい雑音になろうとしています。イエスの先駆者でもあったヨハネは、この福音書で今日の箇所を最後に姿を消すのです。雑音として消えていくヨハネ。しかし、その最後にヨハネは「だから、わたしは喜びで満たされている。」と言い残すのです。雑音であるにもかかわらず、彼は喜びに満たされている。
 雑音となるヨハネは、今日とそっくりの証を少し前の箇所で立てています。
JOH01:27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
 まだおいでになっていないあのお方をさして、荒れ野の声は証を立てるのです。あの日を初日として、ヨハネ福音書冒頭は、7日間のイエス登場を巡るエピソードを描きます。その7日目は華やかなカナでの婚礼でした。その後、宮清め、ニコデモとの対話を経て、再び荒れ野の声が登場します。しかしもはやイエスが登場した後の事です。荒れ野の声は、もはや雑音となって、消え去ろうとしているのです。しかしなぜもう一度、この消えかかった雑音が福音書の中で取り上げられるのでしょうか。1章の19節から28節までの箇所と今日の箇所を比較すると、対照的なことがいくつかあると思います。現象としては今から3つほど挙げますが、しかし内容としてはいずれも一貫性がある対照的な現象だとお思います。要するにそれはイエスの登場の前か後か、ということに集約されます。イエスの登場の前、そのときは世界はまだ暗く、世界はまだ相対的でありました。暗さの故に、ヨハネは声となる必要があったのです。光がない間、声が人々の手元足下を導いたのです。世界が相対的であったが故に「まっすぐにせよ」と叫ぶ必要があったのです。しかし、すべての人を照らすまことの光が世に来ました。暗さはなくなりました。世界は主と出会うことで新しく生まれ変わり、神の国を見ることが許されるようになりました。世界は相対的ではなくなったのです。
 その違いを、すごく小さなところで福音書記者はとらえ直しています。
JOH01:28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
JOH03:23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
 この違いは、地図で見たら判りますが、ヨルダン川を挟んで向こう側とこちら側です。どちらも川のすぐそばです。ヨハネはイエスの登場によって、わずかにヨルダン川を越えてこちら側にやってきました。ヨルダン川の向こう側、それはたとえばバビロンがそびえ立っていたところです。高度な異教文化が支配する土地です。ヨルダン川を越えてこちら側に来る、ということは、ヨルダン川を越えてエルサレムに近づく、ということです。人間の帝国から、神の国へ近づく、ということです。イエスの登場によって、洗礼者と呼ばれるヨハネは一歩そちらに近づくことが許されたのです。それは一歩だけです。ヨルダン川を越えてもユダヤ地方にはいることはできないのです。しかしモーセが約束の地エルサレムにはいることはできなかったが、遙かにその地を望み見ることが許されたように、そしてそのことがモーセにとっての至福であったように、ヨハネにとってもこのヨルダンを越えたということは、喜びだったのではないでしょうか。一歩だけ前進を許されることの喜びです。
 それはもう一つ、違う形で言い表される喜びでもあります。
JOH03:29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
 荒れ野で呼ばわる声。消えかかった雑音と化した声。もうその役割はすんだ。花婿の介添人は、そばに立って耳を傾ければよい。神の声を聞くことの幸いの中に生きてよい。
 ヨハネの最後の一連の言葉は、それ故に最後の「声」としての役割を果たしているところです。
JOH03:27…「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
 これは彼自身の賜物が、天から与えられているものであって彼に内在しているものではなかったということを示します。彼はその賜物ゆえに多くの弟子を持っていました。しかしそれは今は必要ないのです。この言葉は、賜物を持ち、それ故にこれから多くの弟子を持つことになるお方は、その賜物を天から与えられている、そういうお方が地上に生きているということも意味しています。
JOH06:37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。…
そういうお方が、天空のどこか私たちの手の届かないところではなくて、私たちが見て聞いてふれることのできるお方としてこの地上においでになった。そしてそのお方と関わることが許されているのだ、とヨハネはいうのです。
JOH03:28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
 この箇所で、「あなた達自身」という言葉は、重要です。なぜなら、これを聞きに来たのはごく一部のヨハネの弟子だけのはずだからです。しかし、「あなた達自身」というのはこのときいた弟子のことだけではないはずです。もはや社会現象とさえなっていたイエスの弟子たち全員をさして「あなた達自身」といっているのです。
 洗礼者と呼ばれたヨハネはこのように栄光の主が地上で天からのたまものを得て多くの弟子を作ること、そして「あなた達自身」という言葉によってその弟子の中の一人として私たちを招いています。そして彼自身は雑音と化した声の役割を終え、聞くものの喜びに徹するのです。


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