98年8月9日説教


JOH01:43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
JOH01:44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
JOH01:45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
JOH01:46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
JOH01:47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
JOH01:48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
JOH01:49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
JOH01:50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
JOH01:51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」



聖日礼拝説教


「人の子の上にみ使いが」
 「その翌日」。今日もまた、印象的な書き出しです。「その翌日」。日を改めるにつれ、言い換えれば、毎日、私たちが新しくされ、変わる。主が変えてくださる。来るべき神の国にふさわしいものへと変えてくださる。日々、神の国は私たちに近づいているからです。
 その神の国の到来をあらかじめ告げる人物が、聖書にはたくさん出て参ります。彼らは神の国、つまりイエス・キリストの到来を告げ そして同時に、主なる神によって、彼ら自身また新しくされる人物です。今日新しくされる人物。それはフィリポ、そしてナタナエル、であります。
 フィリポがイエスの弟子になる様子は、聖書において手短に記されているに過ぎません。読んでみればこんなものです。

 イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。

 この一冊の本、本の中の本、あるいは本の本と呼ばれています。この本を理解するために、実に多くの人が祈り、そして学びました。その結果、何万冊という膨大な註解書が書かれてきました。

 簡潔に記されている今日の箇所にも、今日の聖書学者はやはり大がかりな注釈をつけています。たとえばこのようなものです。
 フィリポは漁師だったのではないか。ベトサイダとは漁師の町。きっとフィリポはアンデレやペトロとともに この町で漁師として活躍したのだろう。もしかしたらフィリポはイエスに向かって 「あなたを人間を取る漁師にしよう」と言ったのではないか。
 あるいは、ここで 伝道の連鎖反応を読み取ろうとする人もいます。まず最初にヨハネがアンデレに伝道し、アンデレはペトロに伝道し、ペトロはフィリポに伝道した。フィリポはナタナエルに伝道する。そしてナタナエルは次の人に。こうして世界中のすべての人は伝道され、また伝道するようになる。フィリポはいわばその始まりの方の部分の中継点である…
 他にも色々あります。いずれも優れた解説です。聖書には書いていない、フィリポが弟子となった経緯についての優れた解説です。しかし、そのような解釈を始めたとき、一つ抜け落ちてしまうことがあります。それは、ここで主自らが「私に従いなさい」と命令したことです。書かれていないことへの想像を始めると、書いてあることへの注目が弱まってしまうのです。私たちは、書かれていないことを想像する前に、書いてあることを読まなければなりません。イエスが弟子たちに向かって命令をしたのはこれが始めてではありません。この前日、二人の弟子に向かって発しています。彼らは物見遊山で興味本位に主についてきたのでした。その彼らに対して主は「来なさい」と弟子たちを導いたのでした。彼らは主の命令によって弟子となります。そしてそれは福音書記者ヨハネにとって、ただごとではないことなのです。というのも、ヨハネ福音書のどこを探しても、いったんしっかりと弟子とされたものが、脱落するということはほとんど書かれていないからです。そのことは聖書の他の福音書の記事と比べれば、はっきりしています。イエスがどんな弟子たちは、たとえイエスとともに包囲されても、ちりぢりになって逃げるのではなく、剣を取って抵抗する姿をヨハネ伝では示すのです。イエスとともにいる限り、決して勇気を失わない弟子たちの姿がそこにはあるのです。
 いったん弟子とされたものは、脱落しない。恐らくヨハネのいいたかったことは、こうでありましょう。「われに従え」、それは主ご自身の命令である。主の命令、それは楽しい勧誘でも魅力あふれる誘いかけでもない――あるいはそうであってもそれにとどまらない――のです。一種の事態宣告と言ってもかまわないかもしれません。「私に従いなさい」とは「あなたは私に従うことになる」。それは、私たちが通常「命令」という言葉によって考えるものよりは、遙かに重いものです。強力なものです。強力な命令と言ってもかまいません。それはなぜか。主のご命令は、一時的なものでも、変わりうるものでも、ないからです。「主はとこしえに変わることのないお方」。詩編の歌を、私たちは改めて思い起こさねばなりません。聖書から、私たちは永遠の命の言葉をくみ取らねばなりません。主がとこしえに変わることがなく、主の言葉は永遠に続くからです。
 永遠の主はフィリポに命じます。「私に従いなさい。私に従い続けなさい」。フィリポは主の弟子として、従うものになります。そして、伝道するものとなるのです。
 そのフィリポはナタナエルに伝道します。その言葉です。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」。ここには、フィリポの、聖書に対する深い尊敬の念が現れています。もっと簡単な言葉、「私たちはメシアに出会った」では彼は満足しないのです。それは聖書がもっとも古い書物であることと関係があります。もっとも古くからあるものが、もっとも権威がある。そしてその聖書に救い主のことが書かれている。聖書を超える権威、それが救い主、つまりキリストです。「アブラハムが生まれる前から『私はある』」。ヨハネ伝8章にある主のお言葉です。
 フィリポのナタナエルへの伝道は、一筋縄ではいきません。ナタナエル。その名の意味は、「神与えたもう」。その名付け親の深い信仰がよく表れています。その名付け親の信仰を受け継いで、このナタナエルもまた深い信仰を持ち、また敬意をもって聖書をよく読んでいました。聖書に記されているメシアを深く待望した人物です。その待望の深みの中で、彼は慎重でした。軽々しくメシアの噂には飛びつかない人物でした。彼はこう問うのです。「ナザレから何か良いものが出てくるのだろうか」。それはイエスという男がナザレ村出身であることをフィリポから聞いたからです。ナザレ村。その名は聖書、今で言う旧約聖書にはどこにも出てきません。一言で言えば、ナザレとは鄙びた寒村でありました。ある意味では、ナタナエルの疑問はもっともです。しかし、主イエスは、かつてこうおっしゃったことがあります。

 JOH05:39あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。

 イエスを信じようとしないユダヤ人に対する主イエスご自身のお言葉です。これはナタナエルにも当てはまるといえるでしょう。ナタナエルは、このままイエスを信じないユダヤ人の側に回ってしまうのでしょうか。メシアを待つことに慎重すぎることは、いけないことなのでしょうか。この時、彼には導き手が必要でした。フィリポはナタナエルに、こう言います。「来て、見なさい」。これはフィリポの言葉です。しかし、主イエスのお言葉であるかのような気さえいたします。フィリポは伝道するとき、主と同じような言葉遣いをし、主に似たものとなるのです。「来て、見なさい」。フィリポの言葉によってナタナエルは主のもとに歩み寄り 主に結びつけられようとするのです。

 JOH01:47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」

 まことのイスラエル人。イスラエル人とは、やがて来たりたもう神の国を受け継ぐもの 、という意味ですから、こうなります。まことに神の国を受け継ぐもの。正当な相続人。嫡子たる世嗣ぎびと。
 この言葉は、不思議な言葉です。私は以前にあなたを見ていた。ここを読んで私たちは疑問を持ちます。なぜ見ただけでそれがわかるのか。なぜ見ただけで「偽りがない」とわかるのか。
 そもそも「偽りのないもの」とはどういう意味なのでしょうか。これが「偽りを言わない者」となってたら、話は簡単です。それは、モーセの十戒に逆らって偽証をする者のことです。あるいは口でイエスを尊敬しながら腹で別のことを考えている人のことです。それは、明確な罪なのです。偽りごとを言う罪なのです。しかしここでは、偽りのないもの、となっています。言ってみれば、偽り者となる罪に注目します。意図的に偽りごとを言う罪、それは論外です。むしろ問題は、意図的でない偽りです。ヨハネ福音書では、この偽り者となる罪についての注目に、集中します。彼らは今日イエスについていき、明日イエスから離れ、あさってイエスに敵対する人々です。首尾一貫していない風見鶏のようにです。イエスはそれらの人の心の中に何があるかを良く知っておられた(2:24)方です。
 主はご存じなのです。人々の多くは、イエス・キリストが目の前でなした奇跡によって信仰を得ていることを。
 主はご存じなのです。人々の多くは、イエス・キリスト以外が目の前でなした奇跡によって容易に信仰を捨てることを。
 それこそがまさに、主が斥けた「偽り者となる」ことなのでした。今信じている、ということだけではなく、これからも信じるということ、それが偽りから免れる条件です。では、私たちは偽りから自由になって、偽りのないものと主から呼ばれるようになるのでしょうか。偽りのない者。…私には、説教者としてのモラルがありますから、ここで個人名を挙げることはいたしません。しかし、私たちはそのような人を確かに知っています。つい先週もそのような人の一人を天に送りました。偽りのない者。それは主に対する純真、完全な忠誠、幼子のように無垢な心を持ち、主に咎を数えられず、心に欺きのない人。信仰によって生涯を生き抜き、信仰によって死ぬ人。私たちは、確かにそのような人を知っています。しかし、それは個人の力でなったのではありません。はっきりしていることは、私たちの力ではそうなるのとが不可能なことです。そのかわりに主は言うのです。今私のもとに来るのなら、あなた方はいつまでも私とともにいる。あなた方は私から離れることはない。主の方からとらえてくださるのです。そしてさらに主なる神はおっしゃいます。

 MIC04:04人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。

 旧約聖書には、平安を得ている者が休む所としてしばしばこのぶどうの木といちじくの木が挙げられます。主は、私たちをぶどうの木、またいちじくの木の下に呼び集めてくださるのです。そして、そこで聖書を読んだのです。主はナタナエルを、偽りなく主を愛し、いちじくの木の下で安息を得るものと見なしたのです。あなたは主を愛するに偽りない者。いちじくの木の下で安息を得る者。
 それを理解したナタナエルは、彼の持っていた言葉の限りを尽くして、主のことを言い表そうとします。

 JOH01:49…「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

 ナタナエルが夢見ていたのはこうだったかもしれません。イスラエルの王となったイエスが馬に乗り、自らエルサレムの軍勢を率いてローマに進軍し、敵の軍を破り、ローマ皇帝の座っていた座に腰掛ける姿。そして平安を得た自分は、いちじくの木の下でまどろむという夢。それに対して主はおっしゃったのです。

 もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
(JOH01:51更に言われた。)「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 主の使いが現れる。主の使いが、軍隊の将軍ならぬ神の国の王イエス・キリストを経由してこの世に現れる。
 主の使いではなく、聖霊なら、私たちは聞いたことがあります。聖霊が鳩のように下って人の子、つまりイエス・キリストの上にとどまる。かつてバプテスマのヨハネが見た救い主のお姿です。しかし、それはヨハネ一人だけのものでした。今度は違います。

 JOH01:51…天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、「あなたがた」は見ることになる。

 あなた方は見る、といっているからにはナタナエルだけが見るのではありません。すべてのものがそのお姿を見るのであります。
 主はおっしゃるのです。人の子は見た、あなたの上にいちじくの実があるのを。それはあなたに平安のあるしるし。しかしあなた方はみな終わりの日に見るであろう。人の子の上に御使いがいるのを。それは人の子に栄光のあるしるし。

 主に栄光を帰さない者は、たくさんいます。この聖書にも、たくさん出てきます。彼らは、例外なく、偽りものです。そのときに、ごまかすものと言えば、たった一つです。主が十字架についたのは誰のためであったのか。この一点をごまかすのです。主の十字架、それは私たちのためではなかったのか。もう少し込み入った偽り者は、もう少し込み入った、こんなごまかし方をします。聞いてください。

 キリストの復活、確かにそれはあった。しかし、それは私たちの復活とは関係ない。キリストが復活したからと言って、私たちが復活するかどうかは言えない。きっと、復活しないだろう。

 これは、コリントの信徒への手紙1の15章に出てくる、異端者たちの主張です。ここでは、主と私たちとの関係が十字架ではなく復活という点において曖昧にされています。キリストの復活は私たちの復活の初穂となることをごまかすのです。
 しかし、私たちは週ごとの使徒信条の中ではっきりと告白しています。われは体のよみがえりを信ず、と。主の体がよみがえったのは2000年前です。そして、私たちは地上で死を迎えても、終わりの日によみがえる。主の再び来たりたもう日をそのために待ち望むのです。そこには偽りやごまかしはないのです。逆に、偽りやごまかしのあるところ。そこでは、主の日を希望して待ちこがれることがなくなります。コリント前書でパウロは彼ら異端者をこう論駁します。

 もし、死者が復活しないとしたら、/「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。思い違いをしてはいけない。(コリント前書15:32、33)

そう思わせることこそがどの時代にも現れる異端者たちのねらうところなのです。彼らは、偽り者の罪に陥っているのです。
 それに対して、私たちは、偽りがない者と、交わることが出来ます。いや、「互いに」交わることが、この教会で、出来るのです。先週葬りのわざを終えた私たちが、この箇所から慰めを受けるのは、ふさわしいことです。今日の箇所を有り体に要約すれば、こうなります。主なる神は私たちを裏切らない。御子の復活を信じる私たちに私たちの体のよみがえりを主は与えてくださる。そういうことです。主が、再びやってくる日。その日まで、この教会で、偽りから自由になり主を待ち望むことが出来るのです。あなた方はもう偽り者になる必要はない。いちじくとぶどうの木のところで待っていればよい。
 主はそのような私たちに終わりの日のイメージを与えてくださっています。私が再びあなた方のもとへ行くとき、また聖書を解き明かそう。私が再びあなた方のもとへ行くとき、また食事をともにしよう。私たちは、その日に備えて、週ごとに礼拝で説教を聞き、欠かさずに聖餐を守っています。主が再び来られることに希望を抱くことが許されているからです。信じ続け、信仰の生涯を送ることが許されているからです。


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