2003年2月16日説教


 エレミヤ書1:1−19



玉川平安教会説教「お側近くで語る神の言葉」
 主なる神が一人の若者に手を伸ばします。世界を造り、人間に命を与え、救いの中に導き入れた、あの御腕が、今エレミヤの前にのばされています。その手は、他のどこでもなく、彼の口に触れた。神さまは、彼の口を清める必要を見て取ったのです。
 預言者には何が必要か。何よりもまず清い口が必要だ。もっともなことです。しかし、このエレミヤになした神の行為は、それ以上の意味があると思うのです。

 エレミヤは若者でした。最初に召命を与えられたのは恐らく17,8才だと思います。彼はそれまで言葉の人ではなかった。それは彼の生まれと関係があります。一節によれば、彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子でした。祭司の子供、それもおそらくヒルキヤといえば当時名を馳せた有力な祭司でした。神に仕える祭司の息子が言葉の人ではなかったというのは、十分予想できることです。なぜならば、祭司とは、雄弁であってはならないからです。神の御前で礼拝を執り行い、神のご臨在を民衆に示すのに、多くの言葉は必要ありません。私は思うのです。このヒルキヤは、家庭でもまた寡黙な人物ではなかったか、と。生まれがはっきりしている預言者は、旧約聖書で見る限りそう多くはありません。その中で、祭司の息子が預言者になった。それは、彼が信仰深くはあるが決して豊かな言葉で信仰について語ることはない、そういう家庭の育ちであることを示しています。自然と自分が畏れるべきお方について知る、誰を畏れ、何を敬うべきかについてきちんと弁えている、家族全体がそういう雰囲気に包まれている家庭です。いわば彼はいつも神のお側にいた。そしてそのことに幸いを感じる信仰者の一人だった。
 彼は主から言葉を与えられるまで、自分の内面に広がる信仰の世界、もっと正確に言えば神との交わりの世界を、表現することが出来なかった。人間は言葉によって思考する被造物です。言葉が伴わない考えというものは、どうしてもおぼろげなものになりやすい。彼はおぼろには自分がどういうお方のそばにおり、そのお方のもたらす救いとは何であるかをばくぜんとは知っていた。しかし彼には言葉がなかった。
 そして神はこの若者の口に手をさしのべた。それは、この若者が、神の救いについてはっきりと知り、そして民に伝えるために他なりません。エレミヤにとって、口とは、ただ語るためにだけあるのではなく、彼自身の信仰的内面を、自分がお側にいるあのお方についてのことを、はっきりと理解するために必要だったのです。神の言葉を語るための口は、神とはどなたであるかについて考える心の窓口でもあったのです。

 今日の箇所は、このエレミヤが預言者として立てられる、冒頭の部分です。預言者が立てられるとき、神はその預言者を呼びます。召命、という風にいうことがあります。召命には普通、応答があります。この召命と応答をみれば、その預言者がどういう預言者であるかがほぼ分かるといって良いでしょう。エレミヤはこういう預言者です。
JER01:04主の言葉がわたしに臨んだ。
JER01:05「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」
JER01:06わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
エレミヤの母は祭司の家庭の切り盛りをする女性です。その信仰深い家庭にエレミヤが誕生する前から、主は彼のことを知っていた。母の胎から生まれる前に主なる神はエレミヤを知っていた。それに対するエレミヤの答えは何でしょうか。それは、私は言葉を知らない、という答えです。私は神を語る言葉を知らない。私は神を知らない、とは言いません。彼は神をおぼろには知っているのです。しかし語るための言葉を知らない限り、神を知ることにはならない。神はエレミヤを知り、エレミヤは神を十分には知らない!二つの「知る」という言葉を通じて、召命と応答の激しいやりとりがあります。
 知るという言葉は、選ぶという意味を持っています。神はエレミヤが生まれる前から彼を選び取ったのです。だから、彼が神を知るより前から、神は彼を他の誰よりも、母よりも、深く知っているのです。生まれつき神を知っている者はいない。誰もが、神から言葉を与えられるまで、神を知ることは出来ません。そのエレミヤが、今や言葉を与えられようとしているのです。既にエレミヤは言葉を発しかけます。赤ちゃんが、まだ十分コントロールできないのどによって、一生懸命何かを発音しようとしているかのようです。その言葉は、神の召命に応答する言葉です。
 応答をする最初の言葉はこうです。「ああ」。これが召命を受けたときの最初の言葉です。嘆き、嘆息の言葉。
 「ああ、」とは本当に言葉といって良いでしょうか。言葉ならぬ言葉とでもいうべきでしょう。彼がまだ口にみ手を当ててもらっていないとき、エレミヤの口にあった言葉は、この「ああ」という言葉だったのです。「ああ」としか語れなかったエレミヤに言葉を与えたのが主なる神です。この国のことを、この世界のことを、そして主なる神のことを明確に思念し思考する言葉を与えたのです。
 こうして、神のお側に常に居続けたあの若きエレミヤは、口を開き、民に語るのです。
 この時彼は、文字通り目が開かれる思いを与えられました。見るものすべてが新しく見えるのです。言葉を与えられたものは、こうして新しいことを見出すのです。
 彼が伝える第一の預言はこうです。
JER01:11主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」
 彼は今まで十数年間みてきた、一本の木の前で、立ち止まりました。神は、「何が見えるか」と聞かれるのです。全くの日常風景です。この光景を見て、彼は預言を始めるのです。
 この預言は、実はとても変わった預言です。例えばエゼキエルはもっと幻めいた光景を目にし、預言をします。
EZE01:04わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。
EZE01:05またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。
EZE01:06それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
 預言者が日常では考えられない特別な幻を見せられて、そしてその幻について説明するというのが預言者のよくありがちな行為であるのに対して、エレミヤはむしろ典型的な日常風景の中で目に入ったものについて説明することを求められるのです。その意味はこうです。
JER01:12主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと/見張っている(ショーケード)。」
 彼は一本のアーモンド:シャーケードをみて、見張るお方、ショーケードするお方の存在を思い浮かべるのです。そしてそのお方の視線はどこを向き、いかなるものであるか、何のために見張っておられるのかについて深く思いを向けるのです。常に神のお側にいたものであるからこそ、その思索は深みに入ることが出来ます。言葉を与えられた今だからこそ、その思索は深さを極めることが出来るのです。このお方は、ユダの国を見張っておられる。この国が主のみ心に沿って歩んでいるかどうかを見張っておられる。そしてその歩みがそれたときに、速やかに裁きを下すに違いない。誰もが目にする一本の木が、今や神の言葉を伝える重要な道具になります。

 次にエレミヤは、自宅に戻り、台所に立ちます。そこには母が火に薪をくべ、水を張った鍋があるのを目にします。その時、また神の声がするのです。
JER01:13…「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」
 先ほどご紹介したエゼキエルと比べれば、その預言者との大きな違い、何というか、庶民的な感覚がおわかりだと思います。ここでは不思議な動物など一匹も出てきません。毎日母が火にかけていた、なじみのある鍋です。神のみ手がその口に触れた彼は、ここから神との豊かな交わりを元に民に向けて預言を語るのです。一つの鍋をみて彼は預言を始めます。
JER01:14主はわたしに言われた。北から災いが襲いかかる/この地に住む者すべてに。
 北からの災いとは何か。それは、北方の騎馬民族の一つ、すきたい民族が最近強力に力を付け、ユダ王国を脅かし始めていたことでした。そして、やがて私たちを攻めるであろう。それは神御自身がなさる裁きなのである、とエレミヤは預言します。
JER01:16わたしは、わが民の甚だしい悪に対して/裁きを告げる。彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき/手で造ったものの前にひれ伏した。

 一本の木が神のまなざしをエレミヤに思い起こさせ、ひとひらの鍋が神の審きをエレミヤをして語らせるのです。この時エレミヤは、祖国の運命に思いを向け、また神の御心に思いを向けるのです。
 エレミヤは、祖国の敗北を告げる預言者です。それは、国全体が神の前に深い悔い改めをしなければならないと考えたからでした。他の理由はありません。この国に必要なのは神の前で悔い改めることである。

 新しいスタイルの預言者の登場です。勝利する、神が共にいるから国が破れることはないと預言する神殿お抱えの預言者をしり目に、敗北すると預言するのです。やがてエレミヤは愛国主義者から命を狙われるようになります。
 しかし、主は彼にこう告げます。
JER01:07…わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。
JER01:08彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」…
 「救い出す」という言葉は、今日の箇所で繰り返されています。救い出すというのは聖書の元の言葉からすると、「引き上げる」という意味です。エレミヤには、引き上げられたとき、自分が神のそばに戻れることを知っています。いつでも救い出す準備なくして主はエレミヤを民衆のところに送り出せないような預言を彼に託すのです。日常世界のただ中、人間の罪に溢れこのままの状態でよいのだと慢心しているユダ王国の中に入り、神の言葉を伝えることには危険があった。確かな神との交わりの世界がエレミヤにはありましたから、この危険に飛び込み悔い改めを呼びかけることが出来る。
 エレミヤの時代、それが悔い改めの必要な時代であったことを、彼の言葉を記録した一人の記録官の筆によって確認してみましょう。最も重要なことを聖書はこう記しています。
JER01:02…ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、…
JER01:03更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代…ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となる…
 エレミヤが召命を受けたのは紀元前613年のことです。その時、南王国ユダは、わずかしか続かない平安と繁栄の時代にいました。名君といわれたヨシヤ王の時代です。今まで強大なアッシリア帝国に滅ぼされかけていた小国ユダは、かろうじてヨシヤ王の元で政治的・信仰的な姿勢を取り戻したところでした。しかしこの時代に、エレミヤは「敗北する」、この預言を携えて民の前に現れるのです。数十年前なら別に目新しい預言ではなかったでしょう。皆が国がなくなってしまう恐れの中で暮らしていた時代です。同じように、数十年後なら、預言の意味はなかったでしょう。なぜなら、もう既に国が敗れた後だからです。ヨシヤ王の治世は長くは続かず、その子孫の王たちのていたらくにより、ユダ王国は滅ぼされ、バビロニアへの捕囚が始まる。その間の短い期間、このエレミヤをのぞいて誰一人自らの負けを考えたがらない時代に、彼はその預言を神から託されたのです。
 幼い頃から神との交わりの中にいたエレミヤが一本の木と一つの鍋を通じて、神の救いのご計画をかいま見るのです。神の手が添えられたとき、日常世界は神との交わりの世界へと突如変化するのです。

 そのことを考えるときに、私が今日の箇所を読み、またエレミヤ書全体を読むときに心に浮かんだ、連想する言葉は、国破れて山河あり、城春にして草青みたりという芭蕉の一句です。この奥の細道に収録されている一言は、元は中国の詩人杜甫によって歌われた詩です。平安時代の奥州藤原三代の栄華を極めた場所に立った芭蕉が、杜甫の詩を思い出しながら、人間の栄華のはかなさを歌う文章です。人間ははかない。そして人間が栄華の極みを誇っても、それは自然の悠久さの前では何と小さいものであるかと歌う歌です。

 芭蕉の旅路は、この平泉、つまり奥州藤原の文化がかつて栄えたところが本当の終着点であったといわれます。彼はそこを目指して旅をしていたのです。人間のむなしさとは何か。芭蕉の前に広がるのは、田野、金鶏山、そして北上川南部より流るゝ大河。彼にとって、田畑と山・そして川を見たときに、自然以上のもの、つまり人間のむなしさを見て取るのです。
 藤原氏・すなわち平氏がその後滅ぼされて鎌倉時代が到来することなど、誰も予想していなかった。しかし芭蕉がこの歌を歌うとき、誰もが思う、ああ、国破れて山河ありだなあ、まさにそのとおりだなあ、と。日本人の文化が達した一つの極みでしょう。

 それでは、1600年以上前の預言者エレミヤが、この歌を聞いたら、なんというでしょうか。国破れることを見て取ったエレミヤなら、本歌取りをしてこう歌うのではないか。すなわち、国破れて主なる神あり、と。国が滅んで悠久の山河を見渡す芭蕉とは対照的に、エレミヤは国が滅んで、なおその世界を支配する神の御心に深く思いを寄せるのです。そしてまさにこの国破れて主なる神ありという思いこそが、この旧約聖書を代表する預言者エレミヤの生涯を支配する思いだと思うのです。
 私は思うのです。国破れて山河ありという芭蕉の歌は、日常が破綻して人間の内面が姿を現したという歌です。それなら、エレミヤの生涯をかけてなした預言は、私たちの考える日常が破綻して、神と交わる世界への招きだったのではないか、と。
 言葉が与えられたとき、エレミヤは目覚めるのです。彼は知ります。今まで目にしていたはずの木が、神のご計画の確かさを示すものであることを。今まで目にしていたはずの鍋が、つかの間の惰眠をむさぼるユダ王国への警告であることを。栄華を極め、また零落して辛酸をなめ尽くす生涯すべてが一炊の夢。そこから覚めたときに現実に戻りむなしさを感じるのではなく、真の悔い改めと、そして神との交わりの世界へと引き上げられるのです。
 敗北を伝える預言者は、ユダの国で人々から快くは思われません。しかし、エレミヤは、この国が真に神の言葉によって建てられるために語るのです。それは破壊のための預言ではなく、すべての人が神の前で悔い改める国を建てるための預言です。
 一時的な政治的平安よりも、いつまでも続く宗教的な悔い改めを。外面的な繁栄ではなく内面的な悔い改めを。この国に、この民衆に真に必要なのはそれである。木と鍋から、預言を始める者の言葉です。
 神のそばにいたエレミヤは、こうして民衆に語り出します。今や彼の口には、語るべき明確な言葉があります。彼は、今明確な召命にとらえられているからです。神は一人の預言者に、一国の運命をすべて託してしまわれました。召命を与え、ユダ王国の運命を語る主の言葉をお聞き下さい。
JER01:10見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/――あるいは建て、植えるために。」



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